古文書公開日記26-江戸時代 修験道場から発掘された小判-

現在、整理を進めている古文書はいくつかありますが、このうち昨年寄贈された佐久郡大井法華堂文書は、ほぼ半分の整理が終わりました。
そのなかで、江戸時代の終わり頃、1818に大井好信という人がまとめた顛末記がみつかりました。題名はないのですが、志賀村の神津某が所持している金貨について詳細にレポートしたものです。これによれば、この小判は1766年、志賀村法善寺の境内にある大穴を掘ったところ出土したものということでした。そもそもその法善寺は、昔は「千藏坊」という山伏の廃墟であったこと、天正年間までこの「千藏坊」があったこと、「千藏坊」が熊野権現へ寄進した鰐口が残っていることなどが記されています。金貨は慶長一分金が写し取られています。このほか江戸時代の金貨は後藤光次の刻印のある天保小判がスケッチされています。同じ場所から出たとすれば明和よりあとのことですが、はっきりしたことはわかりません。
なお「千藏坊」という修験の道場は確かに武田信玄の時代に志賀にありました。山県昌景の発給文書(1568年8月4日)に「泉藏坊」としてしっかり出てきます。江戸時代の終わりには泉藏坊は失われ、地域の人々の伝承として存在が伝えられるに過ぎなかったのです。
浅間山を信仰の対象として、東山道(中山道)と上州とを結ぶ交通の要衝には山岳信仰の拠点となる宗教施設(山伏)がいくつかありました。そこは修験者の修行の場という意味だけでなく、貨幣などの富が集まる集積地でもあったことが想像できます。