常設展示室:弥生コーナーに人形土器が帰ってきました。

人面付き土器
留守を守っていた人面付き土器 左が中期後半以降、右が中期前半の顔

 巡回展「長野県の遺跡発掘2018」で、長らく旅に出ていた松原遺跡の人面付き土器(弥生時代中期、約2,000年前)と西一里塚遺跡の人形土器(後期、約1,800年前)が常設展示室に戻ってきました。
 弥生時代の県内、特に千曲川流域の状況をみると、中期以降、川沿いでムラが急増しました。水田や水路の跡も見つかっており、水田開発技術や稲作文化を持った人びとが多く移住してきた可能性があります。その証拠に、長野市篠ノ井遺跡群では、在地の縄文人とは異なる渡来系弥生人の特徴を持つ人骨(歯)が見つかっています。
 新たな文化を持った人びとを迎えたことで、いわゆる“イケメン”にも変化が現れたようです。その変化は人骨だけでなく、人面付き土器や人形土器に描かれた顔でも確かめることができます。
 弥生時代中期までの顔は、縄文時代からの伝統的な顔で、丸顔で眉毛と鼻が太く強調されています。入れ墨のような表現もみられます。いわゆる“濃い顔”とか“ソース顔”と呼ばれる顔です。この人面付き土器が出土したのは、前述した西からやって来た人も住んでいた篠ノ井遺跡群です。この頃までは、まだ、地元の伝統的な縄文顔の方が良いとされていたようです。
 ところが、中期の終わり頃(約2,000年前)から後期(約1,800年前)になると、面長で切れ長の目、筋の通った長い鼻が強調されるようになります。あっさり系の“しょうゆ顔”です。この背景には、実際にこのような顔の人びとがさらに増えたこと、あるいは最先端技術や文化を持ってきた人の顔が憧れの顔になったことが予想されます。
 さて、長野市松原遺跡の人面付き土器は、人面と言いながら耳しかありません。作られた時期は弥生時代中期後半で、“ソース顔”から“しょうゆ顔”に移った時期のものです。どんな顔だったのでしょうか?常設展示室でじっくり眺めながら、想像してみてはいかがでしょうか。

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