古文書公開日記16-戯作雑誌「寄笑新聞」-

寄笑新聞の発行者の名前が書かれている写真
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 明治150年の年、各地でイベントが行われています。最近整理し終えた「1-16細川賢一収集史料」には維新期のたくさんの書籍が入っています。林務技師細川賢一氏は戦前東京帝国大学農学部を経て、林野庁に務め、技師として台湾総督府・朝鮮総督府に勤めています。細川氏の集めた農業関係資料、近世の本草学書物がたくさんあります。多いものは地理や歴史関係の和本があります。また第2次大戦中の世相がわかるグラフ誌もまとまっています。あわせて江戸末期から昭和の各種和本が1,000点以上寄贈されました。そのなかに珍しい書物が4冊含まれていました。
 「寄笑新聞」(創刊号~四号)という明治時代初期の戯作新聞を紹介します。戯作文学とは江戸時代の後半に、町人を中心に読まれた通俗的な読み物です。江戸幕府は武家の学問として漢学・歴史学・経書などを推奨します。いわば支配者の学です。いっぽうでそれでは堅苦しいと、世の中を風刺したり言葉遊びをして町人のあいだに広がったのが「文の学問」としての戯作文学です。従って、寛政の改革や天保の改革で風紀を乱すとして度々処分されたジャンルです。幕末から明治維新になると、こうした戯作文学者は壊滅的な打撃をうけて、1872年の仮名垣魯文の上申書では全国で作者は5名にまで減ったと言います。ところが、支配者階級だった武士が明治時代になって特権階級でなくなると、士族たちの不満が高まっていきます。そうした士族階級をパロディーにする「戯作文学」が再び脚光を浴びます。「寄笑新聞」は、1875年3月刊行に週刊として11号まで発刊した雑誌です。発行者は幕末の戯作者で梅亭金鳶こと、橋爪錦造。内容は、新たな商法にとまどう士族、収入を立たれた士族の借金問題などをパロディにしています。また、実学を唱える福沢諭吉や西洋開化の風潮を風刺した論説も特徴的です。「寄笑新聞」は士族階級を滑稽の対象と見なし、また西洋化に狂奔する世相を皮肉る戯作とみることができるものです。しかし明治初期の戯作文学はあっという間に下火になってしまいます。近代文学のうねりが旧来の文学を押し流したといえます。

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