古文書公開日記15-軍馬を送る-

 1937年に「久保田俊彦先生追悼謝恩会」が開催されました。久保田俊彦の名を聞いて、上諏訪村角間(諏訪市)出身の歌人島木赤彦の本名と分かる方はきっと短歌をたしなまれる人ではないでしょうか。しかし島木赤彦13回忌の記念事業で、追悼短歌が広く募集されたことはあまり知られていないでしょう。短歌の選者は、正岡子規の門下であり赤彦とともに結社「氷むろ」(のち「比牟呂」)を立ち上げた森山汀川(諏訪郡落合村出身)です。今回整理したのは、森川が選者となった赤彦追悼のために投稿された100通以上の葉書(短歌)です(3-28 森川汀川蔵島木赤彦追悼短歌)。アララギ派歌人ゆかりの富士見野公園(富士見町)に追悼歌碑を建立することが発議され、1937年10月24日に信濃教育会・諏訪教育会と合同で挙行されました。この事業の賛同者は、北は北海道はいうまでもなく樺太、南は南洋諸島・南米、大陸には中国・満州、朝鮮、台湾からと幅広い地域の賛同者がありました。赤彦や汀川が教員だったことも反映して県内小学校教員の投稿も目立っています。
 面白いのは投稿された短歌が時局の世相を反映したものが多いということです。とくに同年7月の日中開戦直後でもあることから、「馬廠陥落」「石家荘占拠」といった戦争関連の題が多くみられ当時の世相を伝えています。
 写真の題は「秋日和この頃つづき献納の 馬糧の草のよく乾きたり」です。良質の馬の多い信州からは多くの軍馬が徴用され大陸へ送られました。その様子がよく分かる歌ではないでしょうか。

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