古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−

第二次長州征討の配陣図2

 筑摩郡上生坂村(現在の東筑摩郡生坂村)文書を整理し終わりました。点数は33点ですが、いずれも18世紀前半のものばかりで、当館では比較的古い時代の文書群に位置付きます。文書自体は金子の受取覚や訴訟関係のものなどで構成されています。上生坂村は江戸時代は麻績組に属しており、安曇郡とも接する中山間地でした。生坂煙草と呼ばれる葉煙草や麻の産地でした。今回の整理で興味深かったのはこの地域の絵図面が袋に束ねて収められていたことです。近村の市野川村(現在の麻績村)や麻績町村(同村)の絵図は彩色豊かに描かれています。このなかで唯一異色だったものは、1866年の第二次長州征討(長州藩では四境戦争と呼びます)の配陣図が混入していたことです。文書の持ち主によって描かれたものか収集したものかは不明ですが、絵図面の袋に他の村絵図とともにまとめて入っていたものなので何らかの経緯でこの家にもたらされたのでしょうか。寅六月十四・十五日の打合と記され、小瀬川を挟んで毛利隊と幕府軍が対陣している様子から大竹村(広島県大竹市)の「藝州口の戦い」の様子を描いているようです。長州軍が鉄砲を放ち雷鳴をとどろかしていることなどが見て取れます。彦根藩主井伊直憲、高田藩主榊原政敬などの名前も見えます。小瀬川を渡ろうとする井伊軍は、川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられ、小瀬川が血の海になったと伝えられています。幕府方の人名記述が詳細なことから、おそらく幕府方に参加したものによって記されたものでしょう。長州征討が失敗に終わったことから幕府の威信は急速に失墜し翌年の幕府滅亡へとつながりました。幕末の動乱を示す資料といえるのではないでしょうか。

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