夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!

五榜の掲示の写真
五榜の掲示 1868年 (個人蔵・上田市立博物館寄託)
 夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」の見どころ

 「銀座nagano」は、長野県が首都圏、世界とつながっていく拠点として平成26年に開設されたものですが、正式には「銀座nagano しあわせ信州シェアスペース」と呼びます。「nagano」と「信州」。一つの地域を指すのに、なぜわざわざ二つの地名を使うのか、皆さまは首都圏や世界の方々にうまく説明できますか。
 行政単位としての長野県の誕生は1876年ですが、名実ともに県の基盤が確立するのは1900年の府県制・郡制の制定を待ってでした。1900年は、浅井 洌・北村季晴コンビによる「信濃の国」が誕生した年でもあります。そして「信濃の国」は、1968年、長野県歌に指定されました。
 「長野県」と「信濃(あるいは信州)」。同一の地域を指しながら、なぜ私たちはこの2つの地名を使い続けているのでしょうか。なぜ、「信濃(信州)」という地名に今もこだわりを持ち続けているのでしょうか。
 幕末の信濃地域は十余の藩と幕府領が複雑に入り込み、統一した社会のかたちをなしていませんでした。また、もともと広い地域です。東西南北で気候も文化も違い、とくに南北では日常生活のなかの習俗や考え方が随分異なっていると言われています。多くの峠と川によって区切られた地域毎に独自の文化が息づいているところに、この地域の特色があります。このように考えたとき、明治のはじめ、わずか十年ほどで現在の長野県が成立したという史実は驚くべきことです。
 しかし、であるからこそ、長野県誕生への道は平坦なものではありませんでした。わずかな期間に、伊那県、中野県、筑摩県などいくつもの新しい行政組織が誕生し、消えていきました。複雑な入り込みを解消して一つの県に統合しようとする力が強く働く一方、地域ごとの独自性を尊重する立場から分散を指向する力も絶えず働いていたのです。また、長野県誕生後も、統合と分散の力のせめぎ合いから、分県論、県庁移転論が度々主張されることになりました。「長野」と「信濃(信州)」という、言葉ではうまく説明できない微妙なニュアンスの違いに対する私たち県民のこだわりは、今から150年前の長野県誕生の瞬間に由来するといってもよいでしょう。
 県立歴史館では、7月8日(土曜日)から「平成29年度夏季企画展 長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」を開催します。当館は、長野県の公文書館としての役割を担っています。当館が所蔵する幕末明治期の行政文書(長野県宝)を精査し、長野県誕生のその時何が起こったのか、この体験から私たちは今、何をくみ取ればよいのか、県民の皆さまと一緒に考えてようとする企画です。
 「人間は歴史的動物」と言われます。歩んできた道を振り返り、過去を見つめることで、たくさんのヒント、教訓を発見し、今を変革し、未来を創造する動物です。「長野県」や「長野県民」は当たり前のように存在するものではありません。また、住民の中に初めから「私たちは長野県民である」という一体感(アイデンティティ)が備わっているわけでもありません。
 リニア時代をひかえ、県下の諸地域がそれぞれ独自のかたちで首都圏や世界と繋がる方法を模索しています。県民意識も大きく変わろうとしています。こうした時期に、もう一度長野県誕生の瞬間に立ち会ってみませんか。「長野」と「信濃(信州)」の2つの言葉に向かい合ってみませんか。
 長野県誕生から約1世紀半が経ちました。つぎの1世紀に向けて私たちは何を手渡せばよいのでしょうか。この企画展は、そのヒントを見つけ出す絶好の場です。是非、ご来館下さい。
(学芸部長 青木 隆幸)

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