"力"のあるかざりと迷いのあるかざり ―縄文土器展への招待状 その4―

毎月、小出しに手を加えてきた常設展の縄文中期コーナー。2017年5月6日(土曜日)の“新(展示)台入れ替え”で、アクリルボード・解説パネル・展示台と続いたリニューアルが完了しました。借用の塩尻市剣ノ宮、筑北村東畑、原村阿久遺跡と当館の優品が、以前にも増して引き立った感じです。ぜひ、見に来てください。
筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡のコーナーでは、縄文時代中期中葉(約5,300年〜5,200年前)、東北信に多い焼町式(やけまちしき)土器が主になっています。今では、電車や自動車で松本平(中信)へ行くにも近く、行政区分は松本平の村と同じ東筑摩郡です。しかし、縄文中期中葉の筑北は、東・北信との結びつきの方が強かったようです。
さらに、塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡出土の焼町式土器も含めて比較してみると、興味深いことがわかります。曲がりくねった粘土ひもで文様(曲隆線文)を描く焼町式と一口に言っても、北信と東信で違うからです。北信は白っぽい土器が多く、東信は赤黒い感じです。また、文様に迷いがなく、きっちりと、“力”のある装飾に仕上がっているのは北信の土器です。約5,500年前から伝統的に曲隆線文を使ってきた地域だけのことはあります。対して、約5,300年前の少し前に曲隆線文を採用しはじめた東信では、少しぎこちない感じを受けます。
こう見てくると、焼町式土器(曲隆線文)の本場は北信?といった推測が生まれます。しかし、北信ではこの時期の遺跡が少なく、決定打がない状況です。千曲市屋代遺跡群の縄文時代中期のムラが地下4〜6メートルに埋まっていたことを考えると、焼町式土器の本拠地は長野盆地の深くに眠っているような気もします。
※焼町式土器(やけまちしきどき) 塩尻市焼町遺跡で出土した縄文時代中期中葉の土器1点が研究の端緒となっており、この名で呼ばれる。研究途上のため、「焼町類型」、あるいは暫定的に「焼町土器」と呼ぶ研究者もいる。曲がりくねり・流れ・つながる粘土紐を軸線として、空白部を沈線などで埋める。同時期の勝坂式土器等で流行した区画文を基本的には使わない。分布は、千曲川流域を主に県内各地や、隣接する群馬県・新潟県などに広がる。