田中芳男展を開催します

 4月19日付け信濃毎日新聞「斜面」で長野県飯田市出身の博物学者田中芳男(1838年〜1916年)が紹介されました。幕末から明治初、パリ、ウィーン、フィラデルフィアの3つの万国博覧会に派遣され、西欧の博物館の考え方を日本に初めて招来した人物です。博物館や美術館、動物園が建ち並ぶ上野公園の礎を築いたのが田中芳男でした。「日本における博物館の父」とも呼ばれています。
 また、長野県ともゆかりの深いリンゴの移植・普及など、様々な農作物の品種改良にも取り組み、東京農業大学の初代学長も務めました。

 田中芳男が生まれた飯田は、中馬と呼ばれる民間輸送者の活躍がよく知られた地域です。東西交通の要衝、「文化の十字路」といわれています。芳男は、本草学をはじめ、医学、洋学、国学が隆盛する豊かな文化風土のなかで育ち、10代半ばに名古屋に出、やがて勝海舟らが中心になって幕府が開設した蕃書調所で西洋の物産・文化の研究に従事しました。
 幕府が倒れると、新政府に出仕。万博で知り合った薩摩藩出身の町田久成や大久保利通らの支援を得ながら、大学南校、文部省、内務省、農商務省で博物館、博覧会行政の中心として活躍します。東京国立博物館、国立科学博物館、恩賜上野動物園(いずれも台東区上野公園)、国立国会図書館(千代田区)。みなさんよくご存知のこれらの施設の源をたどると、そこに田中の姿があります。

 なぜ、芳男が博物館建設に人生を賭けたのか。幼年の頃、父から厳しく諭され、生涯、行動の起点にしたという言葉にヒントがあります。
 「生まれたからには、自分相応な仕事をし、世の中に役に立たなければならない」。
 博物館こそは、田中にとって人生を賭して日本に植え付けるべき「世の中に役立つ」施設だったのです。人間が作り出してきた様々な文物、文化を収集、保存、研究、展示する博物館をつくることで、たくさんの人たちが、自らの歩みを振り返り、今を見つめ、未来を展望し、歩み出すことができると信じたのです。
 「人々の生活をよりよいものにする」、その思いが田中の生涯にわたる膨大な実践と、博物館建設の夢を支えました。
 さらに言えば、芳男は、広い意味での博物館として動物園や植物園をも含んだ文化施設、文化空間を理想としていました。上野公園に動物園があるのは、その影響です。彼は人間だけでなく、様々な生き物たちの生命が共鳴しあう世界の建設を夢見ていたといえるでしょう。「環境の世紀」といわれる現代を先取りしています。
 博物館を観光施設と考える方もいるかもしれません。確かにそういう側面はあります。けれど、博物館の本質は、田中芳男にとっては、歴史を見つめ、よりよい未来を作り出すための学びの出発点となる場だったのです。その意味で私たちは、日本に博物館を創った田中芳男を誇りに思います。

 長野県立歴史館は、田中芳男を生んだ信州の、県立としては唯一の歴史系博物館です。私たち学芸員は、よりよい長野県を作るために歴史館はどうあるべきか、何をなすべきかを真剣に考え、誇りをもって勤務しています。年間2万人近い数の県内外の小中高生が来館し、利用者は10万人を超えます。私たちは日々、たくさんの皆さんと、展示や講座を通じて語り合う営みを続けています。この「語り合い」の中から、子ども達の学ぶ意欲や、地域おこしのヒント、高齢者の方々の生き甲斐(元気)が見つかります。
 たしかに、「観光」は博物館や学芸員の役割の一つといえます。しかし、本当の意味での観光や「観光マインド」は、自分の足下をしっかり見つめることから生まれる自信に支えられなければ魅力的なものにならないでしょう。遠い未来の、よりよい長野県を思い描きながら、自信をもってお客様にそれを語り、考えていただけるよう、私たち学芸員は資料の収集、整理、保存、研究、展示作業に取り組んでいます。

 そして、こうした努力は、当館だけでなく、それぞれの地域の博物館施設の学芸員が地道に続けているものです。長野県には多数の博物館があり、学芸員の要件を満たす施設の数は全国有数です。日本に博物館を創った信州人田中芳男の生涯に想いを馳せると、現在に繋がる不思議な縁(えにし)を感じます。

 当館では今年12月より来年2月にかけ、田中芳男を取り上げた企画展を開催します。田中芳男の出身地飯田市美術博物館では、長年にわたって田中芳男関係資料の収集をおこなってきましたが、このコレクションが、まとまったかたちで展示されることはこれまでありませんでした。今回の企画展では、当館と飯田市美術博物館が連携し、飯田という風土や、田中芳男のたぐいまれな業績を顕彰するとともに、みなさまが「博物館とは何か」ということを考えていただく機会になれば幸いです。(学芸部長 青木隆幸)

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