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2018年の投稿

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復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示

お知らせ

 昨秋の企画展「進化する縄文土器」にあわせ、常設展示室の縄文コーナーも縄文中期の土器が大半を占めていました。ご堪能いただけたでしょうか。1月からは、徐々に縄文人の生活全般がわかる展示に戻していく予定です。
 その第1弾として、1月11日(木)より、長野市松原遺跡出土の「の」字状石製品など、装身具5点を復活させました。当館HPのトップページや「展示のご案内(原始)」に写真を載せていた優品です。待望されていたみなさん、お待たせいたしました。
 松原遺跡の装身具は、縄文時代前期末〜中期初頭(約5,700〜5,500年前)のものです。玦状耳飾(けつじょうみみかざり)は、縄文時代前期に流行した耳飾で、原形は中国大陸にあります。残念ながら上部が割れているので、図を参考にして全体像をご確認ください。素材の石は白っぽい緑泥岩を使っています。残りの4点は、ちいさな孔にひもを通して胸元に下げた垂飾(たれかざり)です。素材の石は、つやのある深い緑色をした蛇紋岩を使っています。新潟県糸魚川市や周辺が原産地で、木を伐りたおす斧(磨製石斧)の材料に使われたひじょうに硬い石です。そんな石を、ギターのピックのようになるまで薄く磨きあげ、形を整えるのは、たいへんな作業だったと考えられます。
 すぐ隣りには、原村阿久(あきゅう)遺跡出土の装身具を展示しています。こちらも縄文時代前期ですが、松原遺跡より古い前期前葉〜後葉(約6,600〜5,800年前)のものです。玦状耳飾は全体に丸い形をしており、流行の違いが感じられます。その他の垂飾品は、丸い石や管状の石に孔を空けただけで、松原遺跡よりも簡素な印象です。
 みなさんは、どちらがお好みでしょうか。常設展示室で品定めをするとともに、縄文人の技術力の高さや、おしゃれの意味(女性に限らず、男性有力者や呪術者だったかも)に思いを寄せててみてください。

復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
長野市松原遺跡出土の装身具
復活!松原縄文人のおしゃれグッズを展示
原村阿久遺跡出土の装身具
[ 2018-01-17 ]

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−

お知らせ

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。新年早々新しい購入史料の整理が終わりましたのでご紹介します。今回ご紹介するのは「高島藩医関家文書」10点です。江戸時代の地方の医者の系譜類が残されています。
 関氏は佐久源氏平賀氏の流れで、戦国時代は木曽義昌、ついで諏方頼重に仕えていました。頼重の死後、武田氏の家臣となり50石の地侍として仕官し、江戸時代は高島藩士となります。
 高島藩の医師としての活動が見いだせるのは江戸時代中期1738(元文3)年、盛信の孫盛喜が江戸の医師大澤玄随に学んでからです。盛喜は玄悦を名乗ります。 
 興味深いのは玄悦の経歴です。高島藩士でありながら、玄悦は尼崎藩松平氏の扶持を得ていました。三人口(扶持)という少禄でした。さらに鳥羽藩藩主稲垣氏に召し抱えられ、扶持米も増えました。家の歴史を記した系譜「家乗(かじょう)」によれば鳥羽藩時代には藩主から白無垢着用、帯刀も免許されたと記されています。そしてふたたび諏訪へ戻ることになり、上諏訪へ転居したのが1785(天明5)年でした。諏方氏ゆかりの頼岳寺に祀られました。
 以上の「家乗」の記述からは、武士でありながら医業に携わっていた関家の経歴がわかるのですが、興味深いことは、藩医として各藩のお抱えとして仕官先をたびたび代えていたことです。医業は専門職で、求めに応じて仕官先を転々としたことがわかります。
 まるで江戸時代の「Doctor X」と言えるのではないでしょうか。

古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真1 「系譜」関氏の武士としての出自が記される
古文書公開日記9−江戸時代のお医者さん−
写真2 関玄悦の項
[ 2018-01-11 ]
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