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2017年の投稿

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友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜

お知らせ

 秋季企画展の名称が「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」に決まり、本格的な準備に入りました。縄文時代中期中葉(約5,400〜5,000年前)における縄文土器のかざりは、(1)流れるもようが軸になる東北信〜北陸と、(2)区画もようが基盤の中南信〜西関東のように、地域差を強調する方向で進化します。
 例えば、土偶を土器のかざりに取り込んだ南信〜西関東では、土偶はしだいに大きく、丁寧に、さまざまな文様が追加され、他のかざりと合成・合体して進化します(土偶とはわからなくなっていきます)。その到達点が、富士見町藤内(とうない)遺跡の「神像土器」と呼ばれる土器です(写真右)。一方、その他の地域では、土器に土偶が貼りつくなどもっての外、と言わんばかりに、ほとんど作られることがありません。
 しかし、縄文人が排他的な人たちだったのかというとそうでもなく、交流は盛んだったようです。あえて他地域とは違う「おクニ自慢」の優品を持ち込んだり、現地製作?しています。そして、持ち込まれた土器を見ては、ちょっぴり真似したりしています。「神像土器」に描かれた区画文も、元はと言えば、北陸の前時代に流行っていたのを南信〜西関東の縄文人が真似し、アレンジして独自進化をとげた文様です。
 もう一つ、交流関係を示す面白い土器が、今、常設展示室に飾ってあります。筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡の土器(写真左)です。よくみると、最高傑作の「神像土器」を一回りも二回りも小さくし、土偶のかざりも簡略化した妹(弟)分のような土器です。この時期の東畑遺跡では東北信の焼町式土器が主になっています。もしかすると、友好関係のために諏訪・松本方面から運ばれてきたのかもしれません。
 同じような事例は、茅野市棚畑(たなばたけ)遺跡出土の国宝「縄文のビーナス」でも見られます。ビーナスと似た顔で、簡略化された帽子を被り、一回りも二回りも小さい土偶が山梨や塩尻市の遺跡から見つかっています。友好関係のネットワークを築くため、妹分が派遣されたのかもしれません。

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜
左>筑北村東畑遺跡 顔(円文)と土偶の肩〜背部分などが簡略化されて表現されている。右>の藤内遺跡(当館蔵レプリカ)を知らないと、土偶装飾とはわからないかも
[ 2017-06-28 ]

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開

お知らせ

平成13(2001)年6月、千曲市八幡の社宮司(しゃぐうじ)遺跡から、平安時代末期(11世紀から12世紀)の製作と推定される木製の仏塔が出土しました。仏塔は擬宝珠(ぎほうじゅ)、笠、蕨手(わらびて)、風招(ふうしょう)、風鐸(ふうたく)、幢身(どうしん)からなり、それぞれクリ、ケンポナシ、サワラ、ヒノキ、エノキと違った木材で製作されていました。これまで平安時代末期の様子を描いた『餓鬼草紙』(がきぞうし)などでしか知ることのできなかった仏塔の資料が、国内で初めて遺跡から出土したのです。その性格付けは発掘当時、供養塔あるいは信仰の対象物と考えられ、鎌倉時代以降に製作される「石幢」(いしどう)以前の製作物として「木幢」(もくどう)と名づけられました。しかし、その後研究によって、仏教儀礼の空間を飾る荘厳具との位置づけが示され、平安時代における地方の仏教文化を知る比類のない重要資料と評価され、「木造六角宝幢」と改称されて長野県宝に指定されました。

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢(複製)
特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢解説パネル
[ 2017-06-08 ]

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−

お知らせ

 史料整理はかならずしも古文書だけに限りません。
 今回は木下尚江の肖像画を紹介します。この作品は昨年度県外流出史料の一部として購入したものです。 
 尚江は松本藩士木下秀勝の子として明治2年(1869)に生まれた自由民権運動家で、初期社会主義者として知られています。「病野老」とあることから病を得た晩年の尚江像、しかも手紙に添付されていることから、自画像と見られます。
 尚江は「信陽日報」の記者、弁護士などの活動もおこない、松本キリスト教の洗礼を受け、キリスト教人道主義者として日露戦争では非戦論を唱えた人物です。
 軸装に貼付された書翰の宛名から、この絵は高崎在住のキリスト教者住谷天来にあてたものと推測されます。住谷は内村鑑三らと交遊した「万朝報」記者で、のち郷里の群馬県に帰って伊勢崎教会、甘楽教会の牧師となっていることが知られます。キリスト教徒、非戦平和主義者として活動していたことから、尚江との交流が生まれたのでしょう。
 切手の印字が「12.3.7」となっており、また自画像も3月7日付となっています。木下は昭和12年(1937)に癌を発症しその年の11月に没しています。これが昭和12年のものと推定すると、この作品は最晩年の尚江肖像となり、意義深いと言えましょう。

古文書公開日記4−木下尚江肖像画−
[ 2017-06-04 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)

お知らせ

 4月29日のブログで紹介した「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん。すでにススキの陰から移動しています。お気づきでしょうか。まだ幼いのでキノコを食べはしないでしょうが、好奇心旺盛でキノコのところまでやってきました。すぐ脇には、ワレモコウがあります。高さ数十?になるバラ科の山野草です。秋には、紫色の花をつけます。長野県内では、今でも人里近くの林と農地の境あたりで見ることができ、縄文時代のムラ周辺にも生えていたと考えられます。ワレモコウの根っこには止血効果があるそうです。縄文人は、野草に効能に詳しかったと思われるので、けがをした時に使っていたかも知れません。
 さて、ウ〜リィちゃん今度はどこへ? みなさん「縄文阿久ムラ」で探してみてください。

※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存を求める声がたかまり、現在は道路の下に埋没保存されています。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
キノコとウ〜リィちゃん
縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(2)
「縄文阿久ムラ」のウ〜リィちゃんとワレモコウ
[ 2017-05-30 ]

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−

お知らせ

当館2階にある閲覧室をご存知でしょうか。閲覧室には、原始時代から近現代にわたる基本文献など多数の図書・雑誌10万冊以上が収蔵され閲覧できます。館内コンピュータで検索することもできます。また、閲覧申請をしていただければ、当館収蔵の行政文書や古文書もご覧いただけます。専門家だけでなく、一般のみなさまも調べ物にご利用いただいております。写真は長野県PRキャラクターのアルクマがを閲覧室を利用した時の様子です。

利用の仕方がわからないときや当館職員へのご質問がある場合は、閲覧室に職員が常駐しておりますので、遠慮なく声を掛けてください。なお、閲覧室のみのご利用は、観覧料をいただいておりません。また、本の貸し出しは行っておりませんのでご承知ください。(申請をしていただければ複写も可能です。)

くわしい利用の仕方については、下のリンクより「閲覧室利用のご案内」をご覧ください。

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧申請をするアルクマ
調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧中のアルクマ
[ 2017-05-26 ]

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−

お知らせ

伊那郡三日町村鳥山家資料が寄贈され、ようやく整理が終わりました。文書だけでなく、地図や写真、絵葉書、雛道具類など多様な資料が満載されていて飽きませんでした。そのなかでコインのコレクションに面白いものがありました。鳥山家資料のなかには中国北宋からの渡来銭や、江戸時代の寛永通宝(古いタイプと新タイプ)がありましたが、何気なくみた一枚が不思議な文字が刻まれています(写真)。「南無阿弥陀仏」と時計回りに読むことができます。念仏銭とよばれているこのような銭の形をした類似品は珍しいものです。もちろんこれが物を購入する際に使用されていたわけではありません。玩具(おもちゃ)という考えもあるようですが、重みや表面のようすはまさに「銭1匁(もんめ)」そのものですので、一見すると通常の銅銭と変わらぬ精巧さです。
江戸時代の墓の埋納された銭について集成したした鈴木公雄氏によると、17世紀後半から通常の貨幣といっしょにこのような念仏銭が墓に埋納されるようになるそうです。「三途の川の渡し賃」とよく言いますが、六道銭として知られる「6枚の銭貨を死者に持たせる」習俗(もっとも銭は6枚とは限らないようです)と関係があるのでしょうか。今でも死者の棺に紙に印刷された六道銭を封入する地域もあるそうです。似たものに「南無妙法蓮華経」と刻まれた「題目銭」もあります。
鈴木先生によるとこの貨幣は17世紀後半から18世紀前半の中で鋳造されたらしいこと、1999年の段階で大都市の近世墓から全部で300枚以上見つかっているそうですから、全国でもっとたくさん広まっていたことが想像できます。亡くなった死者を無事極楽浄土へ送ってあげるために考案された江戸時代ならではのコインではないでしょうか。興味のある方は鈴木公雄『出土銭貨の研究』(東京大学出版会、1999年)をご参照下さい。歴史館の閲覧室でも読めます。

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
念仏銭
古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
読み方
[ 2017-05-23 ]

古文書公開日記2−明治の残像−

お知らせ

このたび佐久郡大日向村浅川家文書の整理が完了し、ようやく公開にたどり着きました。この史料は昨年度古書店より購入したもので、いくつかに分散して売られていたものをまとめて購入しました。購入当初ははっきりとした点数は分からなかったのですが、整理を終えてみると目録件数で900件、全部で1012点もの数になりました。大日向村というと、昭和初期の満蒙開拓で分村移民をした村で有名です。残念ながらその関係の史料は含まれていませんでした。しかし思いがけない史料に出会いました。1884(明治17)年の秩父事件に関する被害を示す史料が5点あったのです。大日向村は十石峠を介して上州と直接つながっている村です。埼玉県秩父郡で立ち上がった自由民権運動に参加した農民や知識人たちが結成したのが秩父困民党です。このうち急進派と呼ばれる人々のリーダーが菊池貫平(北相木村出身)でした。十石峠をこえて信州に入って来ました。信州の最初の入り口がこの大日向村でした。この村の龍興寺というお寺を本陣として高利貸に賃金の半数放棄、他は据え置き、年賦返済を交渉します。きかないときは家屋破壊または放火するといった、中世の徳政一揆に近い行動を起こしました。当時は佐久や秩父で作られた繭の値段が暴落していたので農村は極めて困窮し、借金を抱える者もたくさんいたのです。この浅川家は江戸時代の名主を代々務めた家で、明治時代は大日向村戸長役場の戸長を務めていました。そういう関係もあったので秩父困民党の襲撃を受けてしまいました。役場(といっても浅川家)は荒らされ、紛失した物品も数多くあったようです。事件が沈静化したあと、浅川源助さんはなくなってしまった品物のリストを作り警察に届けています。淡々としたものですがかえって生々しい記録です。

古文書公開日記2−明治の残像−
紛失並毀壊物御届
古文書公開日記2−明治の残像−
紛失物リスト
[ 2017-05-19 ]

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−

お知らせ

当館受付横にミュージアムショップがあります。規模はそれほど大きくありませんが、黒曜石や歴史好きにはたまらない商品が並んでいます。また、当館から出された企画展の図録やブックレットなどの出版物の販売もしています。

このミュージアムショップで、当館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」の販売をはじめました。価格は600円(税込み)です。「アルクマ」はみなさんご存知のように長野県PRキャラクターで、3月には、当館オリジナルの「アルクマピンバッチ」500円(税込み)の販売も始まっています。どちらも、当館ミュージアムショップでのみ手に入れることができる商品です。当館に来館された記念にぜひお買い求めください。

また、3月に設置したアルクマの来館記念パネルも好評で、多くの方が記念撮影に利用されています。「長野県立歴史館」の文字と日付が入っており、来館記念の写真撮影にぴったりです。こちらもご利用ください。

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
アルクマまが玉ストラップ
歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
当館ミュージアムショップ
[ 2017-05-16 ]

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜

お知らせ

毎月、小出しに手を加えてきた常設展の縄文中期コーナー。5月6日(土)の“新(展示)台入れ替え”で、アクリルボード・解説パネル・展示台と続いたリニューアルが完了しました。借用の塩尻市剣ノ宮、筑北村東畑、原村阿久遺跡と当館の優品が、以前にも増して引き立った感じです。ぜひ、見に来てください。
 筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡のコーナーでは、縄文時代中期中葉(約5,300〜5,200年前)、東北信に多い焼町式(やけまちしき)土器が主になっています。今では、電車や自動車で松本平(中信)へ行くにも近く、行政区分は松本平の村と同じ東筑摩郡です。しかし、縄文中期中葉の筑北は、東・北信との結びつきの方が強かったようです。
 さらに、塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡出土の焼町式土器も含めて比較してみると、興味深いことがわかります。曲がりくねった粘土ひもで文様(曲隆線文)を描く焼町式と一口に言っても、北信と東信で違うからです。北信は白っぽい土器が多く、東信は赤黒い感じです。また、文様に迷いがなく、きっちりと、“力”のある装飾に仕上がっているのは北信の土器です。約5,500年前から伝統的に曲隆線文を使ってきた地域だけのことはあります。対して、約5,300年前の少し前に曲隆線文を採用しはじめた東信では、少しぎこちない感じを受けます。
 こう見てくると、焼町式土器(曲隆線文)の本場は北信?といった推測が生まれます。しかし、北信ではこの時期の遺跡が少なく、決定打がない状況です。千曲市屋代遺跡群の縄文時代中期のムラが地下4〜6mに埋まっていたことを考えると、焼町式土器の本拠地は長野盆地の深くに眠っているような気もします。
 
※焼町式土器(やけまちしきどき) 塩尻市焼町遺跡で出土した縄文時代中期中葉の土器1点が研究の端緒となっており、この名で呼ばれる。研究途上のため、「焼町類型」、あるいは暫定的に「焼町土器」と呼ぶ研究者もいる。曲がりくねり・流れ・つながる粘土紐を軸線として、空白部を沈線などで埋める。同時期の勝坂式土器等で流行した区画文を基本的には使わない。分布は、千曲川流域を主に県内各地や、隣接する群馬県・新潟県などに広がる。

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
筑北村東畑遺跡出土土器 厳密な製作地は不明だが、白っぽく、円と三叉文の組合せを多く用いるなど、北信の可能性が高い土器。 
“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
塩尻市剣ノ宮遺跡出土土器 赤黒く、下部の無文帯との境に分帯線を持つ。東信からの搬入品か、出張製作?模倣製作の可能性あり
[ 2017-05-12 ]

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)

イベント

去る5月5日、ゴールデンウィークのイベントとして「歴史館でこどもの日」を開催しました。当日は、たくさんの親子連れのみなさんが歴史館を訪れ、体験を通し、楽しく歴史に触れることができたようです。

「石のアクセサリーづくり」に参加された方は、時間を忘れるほど熱心に石をけずり、まが玉やハート型の世界でひとつだけのオリジナルのアクセサリーを仕上げていました。また、「縄文人になって遊ぼう」のコーナーでは、本物の縄文土器に触れたり、当時の服装に身を包んだりして、縄文人になりきっているほほえましいご家族がいらっしゃいました。今回から新たに加わった「プラ板マスコットづくり」では、当館オリジナル長野県PRキャラクター「アルクマ」や土器などの絵をもとに、かわいいマスコットを多くの子どもたちが作ることができました。

こういったイベントを通して、さらに、歴史に関心をもっていただければと考えております。夏休みにも同様の企画を計画しておりますので、ご期待下さい。

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
縄文人になって遊ぼう!
歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
石のアクセサリーづくり
[ 2017-05-10 ]
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