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本日も多くの小学生が見学に来てくれました。

お知らせ

 当館には、年間約250校、13,000人ほどの小学生が見学に訪れます。長野県内の小学生の半数以上が来ていることになります。また、県内に宿泊施設をもつ東京都の小学生もたくさん見学に訪れます。
 学校見学が一番多いのが5月です。ちょうど小学校6年生の社会科の学習で、日本の歴史について学びはじめた頃で、季候もよく、見学にはもってこいのシーズンです。本日も小学校9校、高校2校、合計800人ほどの子どもたちが見学に訪れ、熱心に見学する姿が見られました。
 当館の見学で好評なのが、職員による展示解説です。クラス毎に1名の職員がつき、展示の解説を行います。経験豊富な職員が、子どもたちに問いかけながら、専門的な知識をもとに解説をしていきます。また、普段は入れないバックヤードの見学も好評です。本物の土器に触れたり、3,500年前の縄文人と対面したり、教室ではできない貴重な体験ができます。

 今年度も大変多くの予約をいただいておりますので、見学を検討されている学校の先生方は早めに申込をお願いいたします。申込につきましては、当館ホームページ「学校団体のご利用について」をご覧いただければと思います。ご不明な点がありましたら、当館総合情報課(026-274-3991)学校見学受付担当までご連絡ください。なお、予約が重なった場合は、ご希望に添えないこともありますのでご了承ください。

本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
芝生広場で楽しい昼食
本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
展示解説の様子
[ 2017-05-02 ]

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!

お知らせ

 先日、ボランティアの女性の方から「最近、展示のウリボウが、頻繁に場所を移動していてとてもかわいい」と褒められました。現在、「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん(良い愛称をつけてあげてください)の居場所は写真のとおりです。みなさん、歴史館にお出かけの際は、ぜひ、この子にも会ってあげてください。ただし、かわいい!からと言って、決して撫でたりしないでください。とても警戒心が強く繊細なため、手を出すとストレスで毛が抜けてしまいます。
 数年間、ウ〜リィちゃんは屋代遺跡出土のイノノシ骨の参考として展示台に登っていました。レストランの食品サンプルのように「美味しそうでしょ。縄文人が食べるとこうなります(となりの骨)」という、ちょっと悲しい役を引き受けてもらっていました。そこで昨年の展示替えでは、思い切って北村縄文人のお姉さん(模型)の脇に添わせました。縄文ムラの周辺は、標高が低くて大雪の心配が少なく、ヒトが作った草地もあるし、ヒトが育てたマメやクリ、残飯などもあって、イノシシの生息には良い場所です(ヒトに捕まらなければの話)。縄文ムラの近くをウロウロしていて、親とはぐれてしまったウリボウ(幼獣)が、ヒトになついても不思議ではありません(現代でも時々あるようです)。縄文人が、食べるためにイノシシを飼育しはじめた(賛否両論あり)と言う面だけではなく、飼い犬のように育てることもあっただろう、といったコンセプトにしてみたのです。元ネタは、千葉県下太田貝塚(晩期)の墓域で、イノシシと犬の幼獣たちの墓が、ヒトの幼児の墓近くに作られていた事例からの推論です。子犬やウリボウは縄文人にとって親しみのある仲間だったと考えられます。
 今年度の展示では、縄文ムラに住み着いたウ〜リィちゃんが、ムラの中をあちこち気ままにお散歩しているといった感じにしています。現在、ウ〜リィちゃんが身を隠しているススキは、縄文人が森を切り開いたことを暗示した植物です。そして住居の屋根材でもあります。
 さて、ウ〜リィちゃんは、どこにいるでしょうか。常設展示の縄文阿久ムラで探してみてください。
※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存運動が高まりを受けて、道路の下に埋没保存されています。

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!
今日のうり坊
[ 2017-04-29 ]

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜

お知らせ

 常設展の縄文コーナー。透明なアクリルボードをリニューアルし、見やすくなった点にお気づきでしょうか。スペースに余裕も生まれたため、展示資料数を増やしましたので、ぜひご覧ください。また、アンケート用紙にご意見・ご感想をいただけると幸いです。
 増えたのは、秋季企画展向けの縄文時代中期の土器です。見どころは、一つのムラ(塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡)にさまざまな地域の土器が入って来ていた状況を示した点です。「おクニ自慢の土器大集合!」といった感じです。縄文時代の研究では、土器の材料(粘土と混ぜる砂)や、同じ装飾を持つ土器の広がり方の分析が進んでおり、地域ごとに個性豊かな土器が作られていたこと、しかも盛んに各地に運ばれていた実態がわかってきています。
 剣ノ宮遺跡は、塩尻峠と善知鳥峠の麓に位置し、当時も交通の要衝だったとみられます。立地の良さもあってか、近隣の諏訪・上伊那・松本平南部と共通の装飾を持つ土器の他、下伊那地域の土器、東信地域の土器、遠くは東海地域や西日本系統の土器などが見つかっています。
 さまざまな産物が行き交う交易の場では、土器は商品の入れ物や、運び人の自炊道具として持ち込まれた可能性もありますが、最も多かったのは、物々交換での交換用や贈答品だったと考えられます。なぜなら、本家本元でもなかなか見つからないような、小形の優品が遠隔地から見つかっているからです。“おクニ自慢”の土器を見せれば、どこの地域から来たのかが一目瞭然です。長年の友好関係の証としての贈答品だったのかも知れません。一方で、遠隔地の土器に似せて作った例も見つかっています。遠隔地の珍品を欲しがる人に、中間地域で作ったまがい物を混ぜて渡していたのかも知れません。
 さて、他地域の個性豊かな作品を見た土器製作者たちは、対抗意識を燃やし?さらに独自性豊かな土器を作ろうとしました。逆に、ちゃっかり真似してみたような例もあります。そのあたりの話は、次回以降していきたいと思います。ご期待下さい。

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
西日本・東海・東信・下伊那の土器
おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
常設展示室でリニューアルされた展示資料 左4個体は筑北村東畑遺跡、中央付近が塩尻市剣ノ宮遺跡の土器
[ 2017-04-22 ]

田中芳男展を開催します

お知らせ

4月19日付け信濃毎日新聞「斜面」で長野県飯田市出身の博物学者田中芳男(1838〜1916)が紹介されました。幕末から明治初、パリ、ウィーン、フィラデルフィアの3つの万国博覧会に派遣され、西欧の博物館の考え方を日本に初めて招来した人物です。博物館や美術館、動物園が建ち並ぶ上野公園の礎を築いたのが田中芳男でした。「日本における博物館の父」とも呼ばれています。
また、長野県ともゆかりの深いリンゴの移植・普及など、様々な農作物の品種改良にも取り組み、東京農業大学の初代学長も務めました。

 田中芳男が生まれた飯田は、中馬と呼ばれる民間輸送者の活躍がよく知られた地域です。東西交通の要衝、「文化の十字路」といわれています。芳男は、本草学をはじめ、医学、洋学、国学が隆盛する豊かな文化風土のなかで育ち、10代半ばに名古屋に出、やがて勝海舟らが中心になって幕府が開設した蕃書調所で西洋の物産・文化の研究に従事しました。
幕府が倒れると、新政府に出仕。万博で知り合った薩摩藩出身の町田久成や大久保利通らの支援を得ながら、大学南校、文部省、内務省、農商務省で博物館、博覧会行政の中心として活躍します。東京国立博物館、国立科学博物館、恩賜上野動物園(いずれも台東区上野公園)、国立国会図書館(千代田区)。みなさんよくご存知のこれらの施設の源をたどると、そこに田中の姿があります。

なぜ、芳男が博物館建設に人生を賭けたのか。幼年の頃、父から厳しく諭され、生涯、行動の起点にしたという言葉にヒントがあります。
「生まれたからには、自分相応な仕事をし、世の中に役に立たなければならない」。
 博物館こそは、田中にとって人生を賭して日本に植え付けるべき「世の中に役立つ」施設だったのです。人間が作り出してきた様々な文物、文化を収集、保存、研究、展示する博物館をつくることで、たくさんの人たちが、自らの歩みを振り返り、今を見つめ、未来を展望し、歩み出すことができると信じたのです。
「人々の生活をよりよいものにする」、その思いが田中の生涯にわたる膨大な実践と、博物館建設の夢を支えました。
 さらに言えば、芳男は、広い意味での博物館として動物園や植物園をも含んだ文化施設、文化空間を理想としていました。上野公園に動物園があるのは、その影響です。彼は人間だけでなく、様々な生き物たちの生命が共鳴しあう世界の建設を夢見ていたといえるでしょう。「環境の世紀」といわれる現代を先取りしています。
博物館を観光施設と考える方もいるかもしれません。確かにそういう側面はあります。けれど、博物館の本質は、田中芳男にとっては、歴史を見つめ、よりよい未来を作り出すための学びの出発点となる場だったのです。その意味で私たちは、日本に博物館を創った田中芳男を誇りに思います。

 長野県立歴史館は、田中芳男を生んだ信州の、県立としては唯一の歴史系博物館です。私たち学芸員は、よりよい長野県を作るために歴史館はどうあるべきか、何をなすべきかを真剣に考え、誇りをもって勤務しています。年間2万人近い数の県内外の小中高生が来館し、利用者は10万人を超えます。私たちは日々、たくさんの皆さんと、展示や講座を通じて語り合う営みを続けています。この「語り合い」の中から、子ども達の学ぶ意欲や、地域おこしのヒント、高齢者の方々の生き甲斐(元気)が見つかります。
たしかに、「観光」は博物館や学芸員の役割の一つといえます。しかし、本当の意味での観光や「観光マインド」は、自分の足下をしっかり見つめることから生まれる自信に支えられなければ魅力的なものにならないでしょう。遠い未来の、よりよい長野県を思い描きながら、自信をもってお客様にそれを語り、考えていただけるよう、私たち学芸員は資料の収集、整理、保存、研究、展示作業に取り組んでいます。

 そして、こうした努力は、当館だけでなく、それぞれの地域の博物館施設の学芸員が地道に続けているものです。長野県には多数の博物館があり、学芸員の要件を満たす施設の数は全国有数です。日本に博物館を創った信州人田中芳男の生涯に想いを馳せると、現在に繋がる不思議な縁(えにし)を感じます。

 当館では今年12月より来年2月にかけ、田中芳男を取り上げた企画展を開催します。田中芳男の出身地飯田市美術博物館では、長年にわたって田中芳男関係資料の収集をおこなってきましたが、このコレクションが、まとまったかたちで展示されることはこれまでありませんでした。今回の企画展では、当館と飯田市美術博物館が連携し、飯田という風土や、田中芳男のたぐいまれな業績を顕彰するとともに、みなさまが「博物館とは何か」ということを考えていただく機会になれば幸いです。(学芸部長 青木隆幸)

田中芳男展を開催します
田中芳男(飯田市美術博物館『日本の博物館の父 田中芳男』)より
[ 2017-04-20 ]

学校見学で大人気!−古代風おにぎり弁当−

お知らせ

新年度を迎え、当館への学校見学のシーズンがやってきました。連日多くの小学生が訪れ、楽しみながら歴史について学ぶ姿が見られています。
学校見学の昼食として人気があるのが、当館内の軽食・喫茶「科野の里」の「古代風おにぎり弁当」です。当館に見学に来る小中学生のために、当館開館時に開発されたメニューです。お弁当の中身は、「古代紫米入りごはん」「キビ入りごはん」「鶏肉のエゴマ入り衣揚げ」など昔の人びとが食べていた食材が使われており、歴史の学習にもつながります。科野の里歴史公園の復元住宅や山頂の森将軍塚古墳を眺めながら、当館横の芝生広場でこのお弁当を食べれば、またひと味違ったものになるかも知れません。
「古代風おにぎり弁当」は小中学生の見学限定で、価格は540円です。おにぎり3つバージョン(650円)もあります。大人用の古代風弁当(900円)、特上古代風弁当(1150円)も用意できるそうです。何れも予約制で、1週間前までにご注文をお願いします。くわしくは、軽食・喫茶「科野の里」までお問い合わせください。

長野県立歴史館内  軽食・喫茶 科野の里
電話 026−274−2000(歴史館代表)内線166
[営業時間]10:30〜16:30
[休業日]歴史館と同じ

学校見学で大人気!−古代風おにぎり弁当−
古代風おにぎり弁当(540円) 要予約
[ 2017-04-18 ]

当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い

お知らせ

 先日、当館に兵庫県の方が長野県のブラジル移民について資料調査にいらっしゃいました。建築がご専門で、移民した方々が現地で建設した建物を調査されているとのこと。長野県からの移住者が建てた家屋もあり、移民の歴史的背景や当時の現地の様子、移民者のファミリーヒストリーを明らかにしたいとのことでした。
 長野県は、日本一多くの満洲移民を送り出した県ですが、その理由の一つとして、大正期にブラジル移民が積極的に実施され、功を奏していたことが上げられます。なかでも、サンパウロ州郊外への移民は、現地の言葉で協力、和合を意味する「アリアンサ」移民と呼ばれました。
 当館にはブラジル移民を推進した信濃海外協会の史料の一部が県立図書館を経由して移管されています。320冊にのぼる貴重な史料です。
 今回調査にいらした方は、移民家族のアルバムなど、初めて見る資料が多かったと大変喜んでお帰りになりました。
 ブラジル移民を含む信濃海外協会の資料は当館ホームページで検索できます。まだまだ研究されていない膨大な資料が書庫に保管されています。
 これからもそんな史資料たちをご紹介します。ぜひご利用下さい。

(追記)
調査にこられた方からご質問をいただきました。移民する前に撮影したと思われる写真です。写っている学校の名前を知りたいとのことです。下伊那の学校だろうとのことです。ご存知の方、是非歴史館にご連絡下さい。

当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い
この校舎ご存知ですか?
当館所蔵の海外移民史料と、皆様へのお願い
当館の移民関係史料
[ 2017-04-08 ]

古文書公開日記−もうひとつの明治維新−

お知らせ

文献史料課の仕事はあまり皆さんの目に触れることはありません。現在当館は古文書約20万点、行政文書約10万点以上を収蔵しています。わたしたちは少しでも多くの史料を公開し県民の皆さんに閲覧していただけるように日々整理作業をおこなっています。そこでブログでも少しでも新着の公開情報を更新していきたいと思います。
今回は一昨年新たに所蔵し、つい1ヶ月前の3月に新たに公開対象となった「松本藩士荒川家文書」(5-38)を少しだけ紹介します。
今年は明治維新150年の年です。旧江戸幕府を倒すための内戦と新政権樹立までの過程を明治維新といいます。長岡周辺で戦闘となった北越戦争に新政府軍として参戦した松本藩士荒川右門太は、従軍記録や戦地絵図をたくさん残しています。例えば写真1は、越後国内の絵図で会津へ抜ける街道周辺の様子を書き記しています。とくに「この間人家なし」「人馬平日通行す」「馬通行できず」などといった図面上の細かな記述は、行軍の際に必要な情報を収集しながら書き込んでいったものと思われます。
また非常に面白いのは、右門太は家族にあてた書翰のなかに、戦況や行軍路などを事細かに記録し報告していることです。3ヶ月の間に15通も残されています(写真2)。これらを読み解くことで新しい北越戦争の事実が見えてくるかも知れません。
明治維新後の右門太は貞正と名を改め、建築関係の仕事についたようです。その晩年の戯作文(戯れに書いた文章)は、思わず笑いがこみ上げてくるものです。
こうした文書を書き残した150年前の右門太がどういう人物だったか。紙と墨で書かれた古文書を目の前にしてそんなことを想像してみます。文書の整理作業は、右門太のような人たちとの対話でもあるのです。

古文書公開日記−もうひとつの明治維新−
三国街道周辺絵図部分
古文書公開日記−もうひとつの明治維新−
従軍書翰
[ 2017-04-04 ]

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!

イベント

県民のみなさまに当館をより身近に感じていただくため、長野県PRキャラクター「アルクマ」のオリジナルピンバッチを制作いたしました。去る3月20日(月・祝)には、親子映画会に合わせ、「アルクマ」が来館し、発売記念イベントを開催しました。イベントでは、オリジナル「アルクマ」パネルの除幕、笹本館長によるあいさつ、「アルクマ」との記念撮影などを行い、お子様をはじめ、多くの方々の前でお披露目をすることができました。

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチは、おなじみの長野県PRキャラクター「アルクマ」と、当館が所蔵する長野市松代の松原遺跡出土の「トロフィー形土器」をデザインしたもので、当館のミュージアムショップでのみ販売されています。価格は500円です。来館の記念にぜひお買い求めください。

また、ピンバッチと同じデザインの来館記念のパネルも制作いたしました。「長野県立歴史館」の文字と日付が入っており、来館記念の写真撮影にぴったりです。当館エントランスに設置してあります。ご自由に写真撮影ができますので、こちらもご利用ください。

歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!
アルクマがやってきた!
歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ発売中!
県立歴史館オリジナル「アルクマ」ピンバッチ
[ 2017-03-22 ]

元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜

お知らせ

 館長のフェイスブックに紹介された蛇体装飾付土器(小諸市郷土(ごうど)遺跡)を、3月から常設展示室に展示しました(写真上)。「これがヘビ?」「トカゲだろう?」「いや、縄文人は恐竜を知っていたんだよ」等々の声が聞こえてきそうです。みなさん、いろいろと想像をふくらませてみてください。あるいは、縄文人は精霊(カミ)を表現しているのだから「現実にいるモノではない」のかもしれません。
 それでも、私たちが蛇体と呼ぶのには、より古い土器にヘビっぽい前例があるからです。 考古学では、あるモノが時代とともに変化することを「系統」としてとらえます。このヘビの系統は、尖石遺跡出土品(図)などから変化したと考えられます。図右の古手のヘビはとてもリアルです(実物は茅野市尖石縄文考古館で見てね)。ところが、次の段階の図左では、ヘビらしかぬ動き(鋭角に、しかも上下方向に蛇行する)に変わります。さらに郷土遺跡の例では、さまざまな飾りがトッピングされ、ヘビには見えなくなります。器の形も大きなヘビの精霊を乗せやすくし、目立たせるために変形します(青→)。
 こうした縄文人の発想は、今どきの子どもたちが夢中なアニメ・ゲームの妖怪やモンスターの「進化形」と似ています。変形し、大きくなり、飾られ、合体しながらバージョンアップするのです。郷土遺跡の例は最もレベルアップした形で、「とぐろヘビ」の進化形「ごうどドラゴン」といった感じでしょうか。縄文人も形や大きさを進化させることで、精霊のパワーがアップすると考えたのでしょう。
 ところで、いにしえの精霊は今どきの妖怪につながるとの説があります。さまざまなモノに宿り、説明のつかないできごとは彼らのしわざだ、という考え方です。精霊はヒトには見えない、見てはいけないモノですが、“お願いごと”をするには形が必要です。そこで縄文人は、ヒトやヘビなど「自分たちの知っているモノ」に似せて表現したのかも知れません。この辺の発想も今どきの子ども(作者は大人ですが)と共通していそうです。 
 現在、常設展示室には、別系統の蛇体(札沢遺跡)や、人体(東畑遺跡)のついた土器も展示しています。ぜひ、ご覧になってください。また、秋の縄文土器をとりあげる企画展ではさらにバージョンアップさせますので、ご期待ください。

元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜
常設展示室の郷土遺跡出土土器
元祖!進化するヘビの精霊 〜縄文土器展への招待状 その2〜
茅野市尖石遺跡出土土器(茅野市教委2007に加筆)
[ 2017-03-17 ]

雛人形展示しました。

お知らせ

 常設展示室近世の展示コーナーに江戸期から明治期にかけての雛人形を展示しました。
江戸時代中期以降、江戸日本橋十軒店で雛の販売が本格的になる中で、中山道、北国街道、甲州道中などを通じて、小諸、上田、松代、松本などの城下町の雛店に雛人形がもたらされました。上田城下では大坂屋、松本城下では生安寺小路(現在の通称は高砂町)の雛店が有名です。
2月の下旬には店頭に並べられ、城下町の豪商はもとより、各地の村役人層を中心に購入され、また松本押絵、土雛、達磨も手頃な贈答品として購入されました。
当館に所蔵されている享保雛や古今雛から、江戸時代の節句の一断面をご覧いただきたいと思います。

一般の庶民が紙製の雛や、土製の雛で上巳の節句(雛祭りのこと)を祝う中で、豪農や豪商クラスの人々は享保雛や古今雛など衣裳雛を贈答品として使っていました。
享保雛は江戸時代に流行した衣裳雛です。江戸時代中期以前から発達したとされるもので、面長な顔立ちや女雛の袴がふくらんでいる所などに特徴があります。「享保」という名称は当時使われていた名称ではなく、明治以降に名づけられたものです。
古今雛は江戸時代の中ごろ、安永(1772〜81年)頃に江戸の町で製作・販売が始まった人形で、現在の内裏雛はこの系譜をひきます。「古今雛」の名称も当時から使われていました。今回は、諏訪郡富士見町の旧家から寄贈いただいた二対の享保雛、千曲市の旧家から寄贈いただいた二対の古今雛を中心に展示します。
展示期間は3月7日(火)から3月26日(日)までです。 

雛人形展示しました。
古今雛(当館蔵)
[ 2017-03-08 ]
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