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古文書公開日記8−職人の由緒−

お知らせ

 古文書の整理を進めていくと様ざまな史料にであいます。今回は「寛文六年」(1666年)の銘記がある長巻の写しです。これは松本藩の職人の由緒書です。二十八の職人衆の出入免許を獲得した由緒を記したものですが、こうした由緒は後世に造作されたものが多いのです。造作された偽書だから取るにたらないもの、というのはちょっと早計です。むしろそのなかに偽作の作られる歴史的背景が読み取れます。
 この文書の後半には座頭と松本城下本町菓子職人との相論を幕府朱印で裁許した藩役所による裁許状の写しがのこされています。内容は、座頭による悪口喧嘩を停止すること、小商人へ菓子の売場は免許し、神社・寺内は宮司および法主より借り受けること、座頭は家財残らず取り上げ追放のことなどが記されています。裁判の際に、職人の免許の正当性が問われ由緒が必要になったのでしょう。
 2枚目の写真は当館古文書書庫の配置棚です。今回の文書もここに収められますが、スペースが少なくなってきています。最上部の高い棚に収めるには長い脚立が必要です。これもまた気をつかう作業なのです。

古文書公開日記8−職人の由緒−
古文書公開日記8−職人の由緒−
[ 2017-11-30 ]

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式

お知らせ

 秋季企画展最終日の11月26日(日)、「縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式」をおこないました。優秀作品を描いてくれた6名には檀上で、日本中世史研究の第一人者でもある笹本正治館長から直々に賞状を手渡してもらいました。誰かこの中から、将来の歴史研究者が出てくれたら、「あの時!」を思い出して感動してくれるかもしれません。
 受賞者インタビューでは、一人ひとり客席にむかって「紙一杯に大きく描けました」「難しかったけど○○がうまく描けました」等々、物おじせず、しっかりと話をしてくれました。
 縄文土器写生会には、次のようなねらいがありました。
?走り去るように展示を見る(子どもにありがち)のではなく、展示品を比べて1点だけ選び、じっくり観察し、描くことで、土器に親近感を持ってもらうこと。
?頑張って描くと「ここの模様がうまく描けたよ」とか「難しい所はこうやって描いたんだよ」などと話したいことがたくさん出てきます。発見した点を話すことで、さらに興味を持ってもらうこと。
?表彰というイベントで記憶にとどめてもらうとともに、絵と記念品が家庭に残り、縄文土器と歴史館を思い出してもらうことなどです。
 そのため「勝手にどうぞ」と突き放すのではなく、学芸員や職員がそれとなく寄り添うようにして描いてもらうよう心がけました。
 子どもたちの視点は、頭の固くなった我々にはいい刺激になります。「区画もよう」と「流れるもよう」の違いは、前々回の縄文土器展の写生作品でよく表現されており確信が持てました。次回の展示にあたっては、今回の作品からヒントを得たいと思っています。

縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
縄文土器写生・ぬりえ大会表彰式
[ 2017-11-28 ]

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!

お知らせ

 秋季企画展「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」も1ヶ月を切りました。
 本展では、来館者の皆さんによる人気投票を実施しています。「進化する」のS、「縄文土器」のJ、「土器」のD、エントリーされた91点で、「SJD91総選挙」です。企画展示室に入っていただければ、1人で何点選んでも結構です。
 ねらいは、「土器にそれほど関心があるわけではないけど来てみた」という方や、走り抜けるように展示室を去っていく子どもたちに、好きな土器を選ぶことで、1点1点しっかり見てもらうことが一つ。選んだ理由を書いてもらうことで、お気に入りの土器を憶えて帰ってもらうことが一つ。それに加えて、土器の面白さに気づいてくれたらいいなぁ、ということです。
 投票はこちらが思っていた以上に、多くの方が参加してくれています。用紙の裏まで土器?を記入して、びっしりとコメントを書いていただいた例もあり、展示する側の参考にさせていただいています。専門家の人でしょうか、石膏復元がほとんどの標式資料も、意外と票を伸ばしています。
 9月後半は、「区画もよう」の世界が強く、山梨県南アルプス市鋳物師屋遺跡の人体文のついた有孔鍔付土器がトップでした。10月に入ると、同じ鋳物師屋遺跡の猿形土製品、同県北杜市竹宇?遺跡や海道前C遺跡、笛吹市の人体文付き土器等々、毎日首位が入れ替わるデッドヒートでした。ただし、いずれも顔や人体文がついた土器に集中していた感じです。
 10月後半からは、「流れるもよう」の長野県御代田町川原田遺跡、群馬県渋川市の道訓前遺跡、新潟県糸魚川市の六反田南遺跡の土器が追い上げ、11月初めの時点では、鋳物師屋の人体文と、道訓前の焼町式土器の一騎打ちの様相を呈しています。
 みなさんも、ぜひ、1点1点じっくりと鑑賞していただき、好きな土器を選んで投票してみてください。最終結果はこのHPでお知らせいたします。

デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
現在首位を走る南アルプス市鋳物師屋遺跡の土器
デッドヒートが続く、SJD91総選挙!
SJD総選挙 投票壺・速報・いただいたコメント
[ 2017-11-02 ]

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)

お知らせ

 阿久縄文ムラ(常設展示室)のウ〜リィちゃん(イノシシの子どもの剥製)もヒトに慣れてきたという設定で、大胆にもムラの中央にある立石群まで出てきました。
 ところで、縄文土器のもようを見ていくと、もしかしてイノシシ?という造形に出会います。しかも、最初はヘビだったのが、しだいにイノシシに進化・変身する場合もあります。
 そこで、現在おこなわれている秋季企画展「進化する縄文土器」の展示品を見てみると、「いました!」左の写真を見てください。平らで大きな鼻先(↓)を、鍋(土器)の縁から出して、美味しい料理の匂いを嗅いでいるようです。落ちないように、両方の前足を鍋の縁にかけているのもかわいいですね。土器を横から見ると、右の写真。つぶらな丸い瞳の顔がわかります。
 この作り方は、大きな鼻先がなければ、ヘビのもように似ています。例えば、常設展示室にある札沢の動物装飾土器(?71)のように、少し古い時期の土器では、「三角頭に丸い目」と言えばヘビでした。ところが、時代が進むと、ヘビの頭の先端に大きなブタ鼻のようなモノが合成され、ヘビ→イノヘビ→イノシシに進化していきます。どうしてなのかはよくわかっていませんが、中期縄文人の信仰の対象がヘビからイノシシに移った可能性があります。
 さて、この土器、企画展示室入口付近で、皆さんをお迎えしています。茅野市下ノ原遺跡から出土した土器(?8)です。どこにイノシシ?がついているか、じっくりと探してみてください。

ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
鼻先
ウ〜リィちゃんを探してみよう(4)
イノシシ
[ 2017-10-05 ]

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜

お知らせ

 9月16日(土)に始まる秋季企画展「進化する縄文土器」に関連し、「第3会場」とした常設展示室では、すでに展示資料が出そろいました。
 3月からお目見えしていた中信地区の塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡、筑北村東畑(ひがしばた)遺跡に、東信から長和町大仁反(おおにたん)遺跡、岐阜県下呂市から桜洞神田(さくらぼらじんでん)遺跡の土器が加わりました。
 企画展示室では、北陸〜東北信と、中南信〜山梨といった信州を南と北に二分し、その違いをテーマに展示しています。これに対し、常設展示室では、岐阜県〜中・東信といった東西を軸に、さまざまな地域の土器が行き交っていたことをテーマにしています。もちろん南と北も盛んに交流しているのですが、頭の中がごちゃごちゃになるといけないので、企画展示室では、しっかりと本場の土器を見ていただきます。その分、こちらでは他の地域の土器が運びこまれ、まねされるといった複雑な関係を見ていただきます。
 桜洞神田では、地元や多数派の北陸系土器ではなく、遠方から運ばれてきた信州・東海・西日本の土器を展示しています。いずれも、持ち運びに便利な?コンパクトサイズですが、各地の特徴がしっかりと表現された優品です。
 黒曜石原産地に近い東信の大仁反遺跡には、分水嶺を挟んで対峙する西側の勝坂式土器がたくさん持ち込まれています。今回は、浅鉢を作らない焼町の人びと向けに贈られた浅鉢の優品をご覧いただきます。ところが話は複雑で、勝坂式土器の浅鉢とは少し形が違い、台までついています。贈答向けに特注で作ったのか?考えさせられる土器です。
 企画展・常設展の共通券は500円です。企画展300円だけでなく、こちらにもぜひ足を運んでください。損はしないと思いますよ。

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
下呂市桜洞神田遺跡出土品
『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
長和町大仁反遺跡出土の台付浅鉢形土器
[ 2017-09-13 ]

伊那谷の伝統文化ー大田切人形

お知らせ

 常設展示室内の「近世展示コーナー」の展示替えを行いました。上伊那郡宮田村から大田切人形をお借りして展示しています。

 天保5年(1834)、代々竹本座(大坂)に属する人形遣いの家系に生まれた吉田金吾は吉田国三郎を名乗り、天保12年から文久2年(1862)まで大坂に拠点を置いて人形を操っていました。
 幕末から明治の初め頃、金吾は家族とともに、大坂から大田切村(上伊那郡宮田村)に住み着きました。金吾は人形を操るだけではなく、頭の制作も行い、彼が制作した頭は、大田切だけでなく、黒田・今田(飯田市)、早稲田(下伊那郡阿南町)などにも残っています。

 大田切に定住した金吾は、村人に人形浄瑠璃を教え人形芝居を盛んにしていきました。金吾に指導を受けた村人は、他村に招かれて興行に出かけるようになりました。また、金吾自身は黒田などへも人形浄瑠璃の指導に出かけていました。
 明治16年(1883)に金吾が亡くなった後も大田切の人々は興行を続けましたが、大正末頃興行が不振となり、人形と道具を7・8軒で保管するようになりました。昭和34年以降は全く活動が途絶え、田中・飯島両家から村へ人形・道具類が寄贈されたのです。大田切に残された頭は38点で、吉田金吾が確実に作ったとされるのが8点です。

 寄贈された頭の中に徳島を代表する人形師天狗久(1858〜1943年)が制作した頭が5点含まれていました。天狗久は本名を吉岡久吉といい、昭和18年(1943)に亡くなるまで、徳島市国府町和田の工房で人形の頭を作り続け、優に千を越える頭を作ったと言われています。大きさを見ると金吾が作った頭より1〜2cm大きく作られています。ろうそくの明かりでもはっきり顔が見えるように大きな頭を作って提供したといわれています。

 信州から遠く離れた大坂・淡路・徳島の伝統文化が伊那谷を中心に残されている姿をぜひご覧ください。

伊那谷の伝統文化ー大田切人形
吉田金吾が作った頭「検非違使」(宮田村教育委員会)
伊那谷の伝統文化ー大田切人形
天狗久が作った頭「娘」 (宮田村教育委員会)
[ 2017-09-06 ]

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−

お知らせ

 博物館実習が行われ、古文書の整理実習をおこないました。史料は芦田宿本陣土屋家文書のうちのC群を選びました。選択理由は豊富な近現代史料を含み、江戸時代の崩し字にくらべて比較的読みやすい史料ということ、第2に、対象とした時代(昭和初期)に長野県庁学務課の視学(現在の指導主事)だった土屋傳さんが残した教育行政関係のものが多く含まれており、博物館学や教職を学ぶ学生さんたちにも触れていただきたかったからです。すでに江戸時代の部分は公開されていますが、仮目録だけできているものの電子化されておらず未公開部分が多く残っていました。
 実習生は文書を仮目録にならって整理し、現物とつきあわせながら文字を解読し直します。最初は独特のペン文字に難儀していたようですが、次第に読み込んでいくことができたようです。おかげさまでかなり整理することができました。
 この史料の中には、当時の長野県知事の数々の告辞(卒業式などの祝辞など)を土屋が代理で作成した際の草稿がたくさんあります。時局の進展にともなって、「国家の難局」「銃後」など戦時色の濃い言葉が並んでくることに気づかされます。視学による現場の教師の授業指導書類、教職員の思想動向について県側がかなり神経をとがらせていることをうかがわせる史料も多数あります。今回整理した者は戦前・戦中期の中等教育の指導的な立場にいた側の実態を教えてくれるものです。近日中に公開されることになります。

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
実習生の整理の様子
古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
土屋傳による知事告辞の草稿
[ 2017-08-31 ]

古文書公開日記6−電気のはなし−

お知らせ

 8月になり毎日蒸し暑い日が続いています。いかがお過ごしでしょうか。クーラーの稼働率が高くなる夏は電気の使用量が増えるのでクールビズや省エネなどできる工夫をしたいものです。
 みなさんは信濃電気株式会社という電気会社があったことはご存じでしょうか。今回、この会社が作成した大正期の図面約150点の整理が終わりました。
 近代の長野県は養蚕業が盛んで、各地に製糸場が作られました。山がちで川が多い長野県では、水力を活用した電力会社も設立されました。多くは製糸工場の経営者によって作られました。須坂町にあった製糸会社山丸組は、1912年には県内外に5工場・1514釜、1927年には県内8工場、県外3工場、総釜数約5000釜を誇る日本最大規模の大製糸場でした。その創設者越寿三郎は夜業が増えたことから防犯・防災のため須坂町内に広く電灯を設置するため電灯会社を設立することを企図しました。1903年、こうして信濃電気株式会社は生まれました。米子(須坂市)に水力発電所を設立したことを皮切りに電力供給が進み、1914年(大正4)には東北信地域に402kmの電線路網を広げ、長野県内最大の電力会社になりました。その後も長野地域を基盤とする電力会社長野電灯に電力を供給するなど順調に運営されていきました。しかし昭和恐慌後の養蚕業の打撃とともに経営が悪化し、長野電灯との合併により社は消滅しました。
 今回の図面は須坂・中野・飯山・山ノ内など北信の村の図で、そこには電線架設場所や電灯の位置などを測量技師によって正確に図面上に落としています。この時期は信濃電気の最盛期であり、須坂地域も野口雨情・中山晋平により「須坂小唄」が作られる(1923年)など華やかな時代でした。今回の図面の多くは、電力需要に湧いたそんな時代を象徴するもので、貴重なものといえます。

古文書公開日記6−電気のはなし−
古文書公開日記6−電気のはなし−
[ 2017-08-11 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)

お知らせ

 いよいよ夏休みですね。山へ海へ歴史館へ・・・楽しいことがいっぱい!。動物好きな子は、動物園だけでなく、当館の縄文ムラに来てみてください。探せば探すほど、たくさんの動物、鳥、昆虫がみつかります。
目で探すだけではありません。耳をすますと、いろいろな動物の鳴き声が聞こえます。あるいは竪穴住居の敷物に触っていたら、ホンモノの動物の毛皮だったりします。展示品には動物の骨で作った製品や縄文人が食べ残した骨。よーく見ると、土器のかざりがヘビの形だったり・・・。ぜひ、縄文ムラと展示コーナーで、どんな生き物が何匹いるか数えてみてください。
 縄文時代と同じように、「昭和のころまでは、こんな風に家の近くにいろいろないきものがいたんだなぁー」と実感してみてください(「今でもいるよ」との声も聞こえそうですが)。
 近ごろ、数が増えて、人里近くにも出没するようになった動物。そのうちの一種類が鳴いていますが、当ててくれる子どもがなかなかいません。「鳥?」とかん違いされます。さて、どんな動物でしょうか。ヒント、近ごろ増えたといえばシカ、イノシシ、クマ、サル、さて正解は常設展示室で鳴き声を聞いてみてください。
 ちなみに、かわいい!と評判になったウ〜リィちゃん(幼いイノシシの子)も縄文ムラの中をほんの少し移動しました。猛毒のトリカブトの近くです。動物は毒のある草をよく知っているので、噛んだりはしなかったと思います。縄文人も、よ〜く知っていたと思われるので、この草は薬になる。この草は食べられる・・・。トリカブトは毒があるから矢の先(石鏃)につけて・・・なんて風に使っていたかもしれません。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)
[ 2017-07-28 ]

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−

お知らせ

筑摩郡上生坂村(現在の東筑摩郡生坂村)文書を整理し終わりました。点数は33点ですが、いずれも18世紀前半のものばかりで、当館では比較的古い時代の文書群に位置付きます。文書自体は金子の受取覚や訴訟関係のものなどで構成されています。上生坂村は江戸時代は麻績組に属しており、安曇郡とも接する中山間地でした。生坂煙草と呼ばれる葉煙草や麻の産地でした。今回の整理で興味深かったのはこの地域の絵図面が袋に束ねて収められていたことです。近村の市野川村(現在の麻績村)や麻績町村(同村)の絵図は彩色豊かに描かれています。このなかで唯一異色だったものは、1866(慶応2)年の第二次長州征討(長州藩では四境戦争と呼びます)の配陣図が混入していたことです。文書の持ち主によって描かれたものか収集したものかは不明ですが、絵図面の袋に他の村絵図とともにまとめて入っていたものなので何らかの経緯でこの家にもたらされたのでしょうか。寅六月十四・十五日の打合と記され、小瀬川を挟んで毛利隊と幕府軍が対陣している様子から大竹村(広島県大竹市)の「藝州口の戦い」の様子を描いているようです。長州軍が鉄砲を放ち雷鳴をとどろかしていることなどが見て取れます。彦根藩主井伊直憲、高田藩主榊原政敬などの名前も見えます。小瀬川を渡ろうとする井伊軍は、川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられ、小瀬川が血の海になったと伝えられています。幕府方の人名記述が詳細なことから、おそらく幕府方に参加したものによって記されたものでしょう。長州征討が失敗に終わったことから幕府の威信は急速に失墜し翌年の幕府滅亡へとつながりました。幕末の動乱を示す資料といえるのではないでしょうか。

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
[ 2017-07-13 ]
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