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調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−

お知らせ

当館2階にある閲覧室をご存知でしょうか。閲覧室には、原始時代から近現代にわたる基本文献など多数の図書・雑誌10万冊以上が収蔵され閲覧できます。館内コンピュータで検索することもできます。また、閲覧申請をしていただければ、当館収蔵の行政文書や古文書もご覧いただけます。専門家だけでなく、一般のみなさまも調べ物にご利用いただいております。写真は長野県PRキャラクターのアルクマがを閲覧室を利用した時の様子です。

利用の仕方がわからないときや当館職員へのご質問がある場合は、閲覧室に職員が常駐しておりますので、遠慮なく声を掛けてください。なお、閲覧室のみのご利用は、観覧料をいただいておりません。また、本の貸し出しは行っておりませんのでご承知ください。(申請をしていただければ複写も可能です。)

くわしい利用の仕方については、下のリンクより「閲覧室利用のご案内」をご覧ください。

調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧申請をするアルクマ
調べたいことがある方はこちらへどうぞ−閲覧室−
閲覧中のアルクマ
[ 2017-05-26 ]

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−

お知らせ

伊那郡三日町村鳥山家資料が寄贈され、ようやく整理が終わりました。文書だけでなく、地図や写真、絵葉書、雛道具類など多様な資料が満載されていて飽きませんでした。そのなかでコインのコレクションに面白いものがありました。鳥山家資料のなかには中国北宋からの渡来銭や、江戸時代の寛永通宝(古いタイプと新タイプ)がありましたが、何気なくみた一枚が不思議な文字が刻まれています(写真)。「南無阿弥陀仏」と時計回りに読むことができます。念仏銭とよばれているこのような銭の形をした類似品は珍しいものです。もちろんこれが物を購入する際に使用されていたわけではありません。玩具(おもちゃ)という考えもあるようですが、重みや表面のようすはまさに「銭1匁(もんめ)」そのものですので、一見すると通常の銅銭と変わらぬ精巧さです。
江戸時代の墓の埋納された銭について集成したした鈴木公雄氏によると、17世紀後半から通常の貨幣といっしょにこのような念仏銭が墓に埋納されるようになるそうです。「三途の川の渡し賃」とよく言いますが、六道銭として知られる「6枚の銭貨を死者に持たせる」習俗(もっとも銭は6枚とは限らないようです)と関係があるのでしょうか。今でも死者の棺に紙に印刷された六道銭を封入する地域もあるそうです。似たものに「南無妙法蓮華経」と刻まれた「題目銭」もあります。
鈴木先生によるとこの貨幣は17世紀後半から18世紀前半の中で鋳造されたらしいこと、1999年の段階で大都市の近世墓から全部で300枚以上見つかっているそうですから、全国でもっとたくさん広まっていたことが想像できます。亡くなった死者を無事極楽浄土へ送ってあげるために考案された江戸時代ならではのコインではないでしょうか。興味のある方は鈴木公雄『出土銭貨の研究』(東京大学出版会、1999年)をご参照下さい。歴史館の閲覧室でも読めます。

古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
念仏銭
古文書公開日記3−おもしろい古銭が出てきた!−
読み方
[ 2017-05-23 ]

古文書公開日記2−明治の残像−

お知らせ

このたび佐久郡大日向村浅川家文書の整理が完了し、ようやく公開にたどり着きました。この史料は昨年度古書店より購入したもので、いくつかに分散して売られていたものをまとめて購入しました。購入当初ははっきりとした点数は分からなかったのですが、整理を終えてみると目録件数で900件、全部で1012点もの数になりました。大日向村というと、昭和初期の満蒙開拓で分村移民をした村で有名です。残念ながらその関係の史料は含まれていませんでした。しかし思いがけない史料に出会いました。1884(明治17)年の秩父事件に関する被害を示す史料が5点あったのです。大日向村は十石峠を介して上州と直接つながっている村です。埼玉県秩父郡で立ち上がった自由民権運動に参加した農民や知識人たちが結成したのが秩父困民党です。このうち急進派と呼ばれる人々のリーダーが菊池貫平(北相木村出身)でした。十石峠をこえて信州に入って来ました。信州の最初の入り口がこの大日向村でした。この村の龍興寺というお寺を本陣として高利貸に賃金の半数放棄、他は据え置き、年賦返済を交渉します。きかないときは家屋破壊または放火するといった、中世の徳政一揆に近い行動を起こしました。当時は佐久や秩父で作られた繭の値段が暴落していたので農村は極めて困窮し、借金を抱える者もたくさんいたのです。この浅川家は江戸時代の名主を代々務めた家で、明治時代は大日向村戸長役場の戸長を務めていました。そういう関係もあったので秩父困民党の襲撃を受けてしまいました。役場(といっても浅川家)は荒らされ、紛失した物品も数多くあったようです。事件が沈静化したあと、浅川源助さんはなくなってしまった品物のリストを作り警察に届けています。淡々としたものですがかえって生々しい記録です。

古文書公開日記2−明治の残像−
紛失並毀壊物御届
古文書公開日記2−明治の残像−
紛失物リスト
[ 2017-05-19 ]

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−

お知らせ

当館受付横にミュージアムショップがあります。規模はそれほど大きくありませんが、黒曜石や歴史好きにはたまらない商品が並んでいます。また、当館から出された企画展の図録やブックレットなどの出版物の販売もしています。

このミュージアムショップで、当館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」の販売をはじめました。価格は600円(税込み)です。「アルクマ」はみなさんご存知のように長野県PRキャラクターで、3月には、当館オリジナルの「アルクマピンバッチ」500円(税込み)の販売も始まっています。どちらも、当館ミュージアムショップでのみ手に入れることができる商品です。当館に来館された記念にぜひお買い求めください。

また、3月に設置したアルクマの来館記念パネルも好評で、多くの方が記念撮影に利用されています。「長野県立歴史館」の文字と日付が入っており、来館記念の写真撮影にぴったりです。こちらもご利用ください。

歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
アルクマまが玉ストラップ
歴史館オリジナル「アルクマまが玉ストラップ」販売開始!−ミュージアムショップ−
当館ミュージアムショップ
[ 2017-05-16 ]

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜

お知らせ

毎月、小出しに手を加えてきた常設展の縄文中期コーナー。5月6日(土)の“新(展示)台入れ替え”で、アクリルボード・解説パネル・展示台と続いたリニューアルが完了しました。借用の塩尻市剣ノ宮、筑北村東畑、原村阿久遺跡と当館の優品が、以前にも増して引き立った感じです。ぜひ、見に来てください。
 筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡のコーナーでは、縄文時代中期中葉(約5,300〜5,200年前)、東北信に多い焼町式(やけまちしき)土器が主になっています。今では、電車や自動車で松本平(中信)へ行くにも近く、行政区分は松本平の村と同じ東筑摩郡です。しかし、縄文中期中葉の筑北は、東・北信との結びつきの方が強かったようです。
 さらに、塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡出土の焼町式土器も含めて比較してみると、興味深いことがわかります。曲がりくねった粘土ひもで文様(曲隆線文)を描く焼町式と一口に言っても、北信と東信で違うからです。北信は白っぽい土器が多く、東信は赤黒い感じです。また、文様に迷いがなく、きっちりと、“力”のある装飾に仕上がっているのは北信の土器です。約5,500年前から伝統的に曲隆線文を使ってきた地域だけのことはあります。対して、約5,300年前の少し前に曲隆線文を採用しはじめた東信では、少しぎこちない感じを受けます。
 こう見てくると、焼町式土器(曲隆線文)の本場は北信?といった推測が生まれます。しかし、北信ではこの時期の遺跡が少なく、決定打がない状況です。千曲市屋代遺跡群の縄文時代中期のムラが地下4〜6mに埋まっていたことを考えると、焼町式土器の本拠地は長野盆地の深くに眠っているような気もします。
 
※焼町式土器(やけまちしきどき) 塩尻市焼町遺跡で出土した縄文時代中期中葉の土器1点が研究の端緒となっており、この名で呼ばれる。研究途上のため、「焼町類型」、あるいは暫定的に「焼町土器」と呼ぶ研究者もいる。曲がりくねり・流れ・つながる粘土紐を軸線として、空白部を沈線などで埋める。同時期の勝坂式土器等で流行した区画文を基本的には使わない。分布は、千曲川流域を主に県内各地や、隣接する群馬県・新潟県などに広がる。

“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
筑北村東畑遺跡出土土器 厳密な製作地は不明だが、白っぽく、円と三叉文の組合せを多く用いるなど、北信の可能性が高い土器。 
“力”のあるかざりと迷いのあるかざり 〜縄文土器展への招待状 その4〜
塩尻市剣ノ宮遺跡出土土器 赤黒く、下部の無文帯との境に分帯線を持つ。東信からの搬入品か、出張製作?模倣製作の可能性あり
[ 2017-05-12 ]

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)

イベント

去る5月5日、ゴールデンウィークのイベントとして「歴史館でこどもの日」を開催しました。当日は、たくさんの親子連れのみなさんが歴史館を訪れ、体験を通し、楽しく歴史に触れることができたようです。

「石のアクセサリーづくり」に参加された方は、時間を忘れるほど熱心に石をけずり、まが玉やハート型の世界でひとつだけのオリジナルのアクセサリーを仕上げていました。また、「縄文人になって遊ぼう」のコーナーでは、本物の縄文土器に触れたり、当時の服装に身を包んだりして、縄文人になりきっているほほえましいご家族がいらっしゃいました。今回から新たに加わった「プラ板マスコットづくり」では、当館オリジナル長野県PRキャラクター「アルクマ」や土器などの絵をもとに、かわいいマスコットを多くの子どもたちが作ることができました。

こういったイベントを通して、さらに、歴史に関心をもっていただければと考えております。夏休みにも同様の企画を計画しておりますので、ご期待下さい。

歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
縄文人になって遊ぼう!
歴史館でこどもの日を開催しました。(5/5)
石のアクセサリーづくり
[ 2017-05-10 ]

本日も多くの小学生が見学に来てくれました。

お知らせ

 当館には、年間約250校、13,000人ほどの小学生が見学に訪れます。長野県内の小学生の半数以上が来ていることになります。また、県内に宿泊施設をもつ東京都の小学生もたくさん見学に訪れます。
 学校見学が一番多いのが5月です。ちょうど小学校6年生の社会科の学習で、日本の歴史について学びはじめた頃で、季候もよく、見学にはもってこいのシーズンです。本日も小学校9校、高校2校、合計800人ほどの子どもたちが見学に訪れ、熱心に見学する姿が見られました。
 当館の見学で好評なのが、職員による展示解説です。クラス毎に1名の職員がつき、展示の解説を行います。経験豊富な職員が、子どもたちに問いかけながら、専門的な知識をもとに解説をしていきます。また、普段は入れないバックヤードの見学も好評です。本物の土器に触れたり、3,500年前の縄文人と対面したり、教室ではできない貴重な体験ができます。

 今年度も大変多くの予約をいただいておりますので、見学を検討されている学校の先生方は早めに申込をお願いいたします。申込につきましては、当館ホームページ「学校団体のご利用について」をご覧いただければと思います。ご不明な点がありましたら、当館総合情報課(026-274-3991)学校見学受付担当までご連絡ください。なお、予約が重なった場合は、ご希望に添えないこともありますのでご了承ください。

本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
芝生広場で楽しい昼食
本日も多くの小学生が見学に来てくれました。
展示解説の様子
[ 2017-05-02 ]

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!

お知らせ

 先日、ボランティアの女性の方から「最近、展示のウリボウが、頻繁に場所を移動していてとてもかわいい」と褒められました。現在、「縄文阿久ムラ」に居ついたウ〜リィちゃん(良い愛称をつけてあげてください)の居場所は写真のとおりです。みなさん、歴史館にお出かけの際は、ぜひ、この子にも会ってあげてください。ただし、かわいい!からと言って、決して撫でたりしないでください。とても警戒心が強く繊細なため、手を出すとストレスで毛が抜けてしまいます。
 数年間、ウ〜リィちゃんは屋代遺跡出土のイノノシ骨の参考として展示台に登っていました。レストランの食品サンプルのように「美味しそうでしょ。縄文人が食べるとこうなります(となりの骨)」という、ちょっと悲しい役を引き受けてもらっていました。そこで昨年の展示替えでは、思い切って北村縄文人のお姉さん(模型)の脇に添わせました。縄文ムラの周辺は、標高が低くて大雪の心配が少なく、ヒトが作った草地もあるし、ヒトが育てたマメやクリ、残飯などもあって、イノシシの生息には良い場所です(ヒトに捕まらなければの話)。縄文ムラの近くをウロウロしていて、親とはぐれてしまったウリボウ(幼獣)が、ヒトになついても不思議ではありません(現代でも時々あるようです)。縄文人が、食べるためにイノシシを飼育しはじめた(賛否両論あり)と言う面だけではなく、飼い犬のように育てることもあっただろう、といったコンセプトにしてみたのです。元ネタは、千葉県下太田貝塚(晩期)の墓域で、イノシシと犬の幼獣たちの墓が、ヒトの幼児の墓近くに作られていた事例からの推論です。子犬やウリボウは縄文人にとって親しみのある仲間だったと考えられます。
 今年度の展示では、縄文ムラに住み着いたウ〜リィちゃんが、ムラの中をあちこち気ままにお散歩しているといった感じにしています。現在、ウ〜リィちゃんが身を隠しているススキは、縄文人が森を切り開いたことを暗示した植物です。そして住居の屋根材でもあります。
 さて、ウ〜リィちゃんは、どこにいるでしょうか。常設展示の縄文阿久ムラで探してみてください。
※阿久(あきゅう)は諏訪郡原村にある遺跡で、中央自動車道建設に伴い1976〜78年に発掘調査されました。歴史館で再現した縄文時代前期のムラ跡は、保存運動が高まりを受けて、道路の下に埋没保存されています。

常設展示の縄文コーナーでウ〜リィちゃん(ウリボウ)を探してみよう!
今日のうり坊
[ 2017-04-29 ]

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜

お知らせ

 常設展の縄文コーナー。透明なアクリルボードをリニューアルし、見やすくなった点にお気づきでしょうか。スペースに余裕も生まれたため、展示資料数を増やしましたので、ぜひご覧ください。また、アンケート用紙にご意見・ご感想をいただけると幸いです。
 増えたのは、秋季企画展向けの縄文時代中期の土器です。見どころは、一つのムラ(塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡)にさまざまな地域の土器が入って来ていた状況を示した点です。「おクニ自慢の土器大集合!」といった感じです。縄文時代の研究では、土器の材料(粘土と混ぜる砂)や、同じ装飾を持つ土器の広がり方の分析が進んでおり、地域ごとに個性豊かな土器が作られていたこと、しかも盛んに各地に運ばれていた実態がわかってきています。
 剣ノ宮遺跡は、塩尻峠と善知鳥峠の麓に位置し、当時も交通の要衝だったとみられます。立地の良さもあってか、近隣の諏訪・上伊那・松本平南部と共通の装飾を持つ土器の他、下伊那地域の土器、東信地域の土器、遠くは東海地域や西日本系統の土器などが見つかっています。
 さまざまな産物が行き交う交易の場では、土器は商品の入れ物や、運び人の自炊道具として持ち込まれた可能性もありますが、最も多かったのは、物々交換での交換用や贈答品だったと考えられます。なぜなら、本家本元でもなかなか見つからないような、小形の優品が遠隔地から見つかっているからです。“おクニ自慢”の土器を見せれば、どこの地域から来たのかが一目瞭然です。長年の友好関係の証としての贈答品だったのかも知れません。一方で、遠隔地の土器に似せて作った例も見つかっています。遠隔地の珍品を欲しがる人に、中間地域で作ったまがい物を混ぜて渡していたのかも知れません。
 さて、他地域の個性豊かな作品を見た土器製作者たちは、対抗意識を燃やし?さらに独自性豊かな土器を作ろうとしました。逆に、ちゃっかり真似してみたような例もあります。そのあたりの話は、次回以降していきたいと思います。ご期待下さい。

おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
西日本・東海・東信・下伊那の土器
おクニ自慢の土器大集合! 〜縄文土器展への招待状 その3〜
常設展示室でリニューアルされた展示資料 左4個体は筑北村東畑遺跡、中央付近が塩尻市剣ノ宮遺跡の土器
[ 2017-04-22 ]

田中芳男展を開催します

お知らせ

4月19日付け信濃毎日新聞「斜面」で長野県飯田市出身の博物学者田中芳男(1838〜1916)が紹介されました。幕末から明治初、パリ、ウィーン、フィラデルフィアの3つの万国博覧会に派遣され、西欧の博物館の考え方を日本に初めて招来した人物です。博物館や美術館、動物園が建ち並ぶ上野公園の礎を築いたのが田中芳男でした。「日本における博物館の父」とも呼ばれています。
また、長野県ともゆかりの深いリンゴの移植・普及など、様々な農作物の品種改良にも取り組み、東京農業大学の初代学長も務めました。

 田中芳男が生まれた飯田は、中馬と呼ばれる民間輸送者の活躍がよく知られた地域です。東西交通の要衝、「文化の十字路」といわれています。芳男は、本草学をはじめ、医学、洋学、国学が隆盛する豊かな文化風土のなかで育ち、10代半ばに名古屋に出、やがて勝海舟らが中心になって幕府が開設した蕃書調所で西洋の物産・文化の研究に従事しました。
幕府が倒れると、新政府に出仕。万博で知り合った薩摩藩出身の町田久成や大久保利通らの支援を得ながら、大学南校、文部省、内務省、農商務省で博物館、博覧会行政の中心として活躍します。東京国立博物館、国立科学博物館、恩賜上野動物園(いずれも台東区上野公園)、国立国会図書館(千代田区)。みなさんよくご存知のこれらの施設の源をたどると、そこに田中の姿があります。

なぜ、芳男が博物館建設に人生を賭けたのか。幼年の頃、父から厳しく諭され、生涯、行動の起点にしたという言葉にヒントがあります。
「生まれたからには、自分相応な仕事をし、世の中に役に立たなければならない」。
 博物館こそは、田中にとって人生を賭して日本に植え付けるべき「世の中に役立つ」施設だったのです。人間が作り出してきた様々な文物、文化を収集、保存、研究、展示する博物館をつくることで、たくさんの人たちが、自らの歩みを振り返り、今を見つめ、未来を展望し、歩み出すことができると信じたのです。
「人々の生活をよりよいものにする」、その思いが田中の生涯にわたる膨大な実践と、博物館建設の夢を支えました。
 さらに言えば、芳男は、広い意味での博物館として動物園や植物園をも含んだ文化施設、文化空間を理想としていました。上野公園に動物園があるのは、その影響です。彼は人間だけでなく、様々な生き物たちの生命が共鳴しあう世界の建設を夢見ていたといえるでしょう。「環境の世紀」といわれる現代を先取りしています。
博物館を観光施設と考える方もいるかもしれません。確かにそういう側面はあります。けれど、博物館の本質は、田中芳男にとっては、歴史を見つめ、よりよい未来を作り出すための学びの出発点となる場だったのです。その意味で私たちは、日本に博物館を創った田中芳男を誇りに思います。

 長野県立歴史館は、田中芳男を生んだ信州の、県立としては唯一の歴史系博物館です。私たち学芸員は、よりよい長野県を作るために歴史館はどうあるべきか、何をなすべきかを真剣に考え、誇りをもって勤務しています。年間2万人近い数の県内外の小中高生が来館し、利用者は10万人を超えます。私たちは日々、たくさんの皆さんと、展示や講座を通じて語り合う営みを続けています。この「語り合い」の中から、子ども達の学ぶ意欲や、地域おこしのヒント、高齢者の方々の生き甲斐(元気)が見つかります。
たしかに、「観光」は博物館や学芸員の役割の一つといえます。しかし、本当の意味での観光や「観光マインド」は、自分の足下をしっかり見つめることから生まれる自信に支えられなければ魅力的なものにならないでしょう。遠い未来の、よりよい長野県を思い描きながら、自信をもってお客様にそれを語り、考えていただけるよう、私たち学芸員は資料の収集、整理、保存、研究、展示作業に取り組んでいます。

 そして、こうした努力は、当館だけでなく、それぞれの地域の博物館施設の学芸員が地道に続けているものです。長野県には多数の博物館があり、学芸員の要件を満たす施設の数は全国有数です。日本に博物館を創った信州人田中芳男の生涯に想いを馳せると、現在に繋がる不思議な縁(えにし)を感じます。

 当館では今年12月より来年2月にかけ、田中芳男を取り上げた企画展を開催します。田中芳男の出身地飯田市美術博物館では、長年にわたって田中芳男関係資料の収集をおこなってきましたが、このコレクションが、まとまったかたちで展示されることはこれまでありませんでした。今回の企画展では、当館と飯田市美術博物館が連携し、飯田という風土や、田中芳男のたぐいまれな業績を顕彰するとともに、みなさまが「博物館とは何か」ということを考えていただく機会になれば幸いです。(学芸部長 青木隆幸)

田中芳男展を開催します
田中芳男(飯田市美術博物館『日本の博物館の父 田中芳男』)より
[ 2017-04-20 ]
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