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『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜

お知らせ

 9月16日(土)に始まる秋季企画展「進化する縄文土器」に関連し、「第3会場」とした常設展示室では、すでに展示資料が出そろいました。
 3月からお目見えしていた中信地区の塩尻市剣ノ宮(つるのみや)遺跡、筑北村東畑(ひがしばた)遺跡に、東信から長和町大仁反(おおにたん)遺跡、岐阜県下呂市から桜洞神田(さくらぼらじんでん)遺跡の土器が加わりました。
 企画展示室では、北陸〜東北信と、中南信〜山梨といった信州を南と北に二分し、その違いをテーマに展示しています。これに対し、常設展示室では、岐阜県〜中・東信といった東西を軸に、さまざまな地域の土器が行き交っていたことをテーマにしています。もちろん南と北も盛んに交流しているのですが、頭の中がごちゃごちゃになるといけないので、企画展示室では、しっかりと本場の土器を見ていただきます。その分、こちらでは他の地域の土器が運びこまれ、まねされるといった複雑な関係を見ていただきます。
 桜洞神田では、地元や多数派の北陸系土器ではなく、遠方から運ばれてきた信州・東海・西日本の土器を展示しています。いずれも、持ち運びに便利な?コンパクトサイズですが、各地の特徴がしっかりと表現された優品です。
 黒曜石原産地に近い東信の大仁反遺跡には、分水嶺を挟んで対峙する西側の勝坂式土器がたくさん持ち込まれています。今回は、浅鉢を作らない焼町の人びと向けに贈られた浅鉢の優品をご覧いただきます。ところが話は複雑で、勝坂式土器の浅鉢とは少し形が違い、台までついています。贈答向けに特注で作ったのか?考えさせられる土器です。
 企画展・常設展の共通券は500円です。企画展300円だけでなく、こちらにもぜひ足を運んでください。損はしないと思いますよ。

『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
下呂市桜洞神田遺跡出土品
『進化する縄文土器』 〜縄文土器展への招待状 その6〜
長和町大仁反遺跡出土の台付浅鉢形土器
[ 2017-09-13 ]

伊那谷の伝統文化ー大田切人形

お知らせ

 常設展示室内の「近世展示コーナー」の展示替えを行いました。上伊那郡宮田村から大田切人形をお借りして展示しています。

 天保5年(1834)、代々竹本座(大坂)に属する人形遣いの家系に生まれた吉田金吾は吉田国三郎を名乗り、天保12年から文久2年(1862)まで大坂に拠点を置いて人形を操っていました。
 幕末から明治の初め頃、金吾は家族とともに、大坂から大田切村(上伊那郡宮田村)に住み着きました。金吾は人形を操るだけではなく、頭の制作も行い、彼が制作した頭は、大田切だけでなく、黒田・今田(飯田市)、早稲田(下伊那郡阿南町)などにも残っています。

 大田切に定住した金吾は、村人に人形浄瑠璃を教え人形芝居を盛んにしていきました。金吾に指導を受けた村人は、他村に招かれて興行に出かけるようになりました。また、金吾自身は黒田などへも人形浄瑠璃の指導に出かけていました。
 明治16年(1883)に金吾が亡くなった後も大田切の人々は興行を続けましたが、大正末頃興行が不振となり、人形と道具を7・8軒で保管するようになりました。昭和34年以降は全く活動が途絶え、田中・飯島両家から村へ人形・道具類が寄贈されたのです。大田切に残された頭は38点で、吉田金吾が確実に作ったとされるのが8点です。

 寄贈された頭の中に徳島を代表する人形師天狗久(1858〜1943年)が制作した頭が5点含まれていました。天狗久は本名を吉岡久吉といい、昭和18年(1943)に亡くなるまで、徳島市国府町和田の工房で人形の頭を作り続け、優に千を越える頭を作ったと言われています。大きさを見ると金吾が作った頭より1〜2cm大きく作られています。ろうそくの明かりでもはっきり顔が見えるように大きな頭を作って提供したといわれています。

 信州から遠く離れた大坂・淡路・徳島の伝統文化が伊那谷を中心に残されている姿をぜひご覧ください。

伊那谷の伝統文化ー大田切人形
吉田金吾が作った頭「検非違使」(宮田村教育委員会)
伊那谷の伝統文化ー大田切人形
天狗久が作った頭「娘」 (宮田村教育委員会)
[ 2017-09-06 ]

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−

お知らせ

 博物館実習が行われ、古文書の整理実習をおこないました。史料は芦田宿本陣土屋家文書のうちのC群を選びました。選択理由は豊富な近現代史料を含み、江戸時代の崩し字にくらべて比較的読みやすい史料ということ、第2に、対象とした時代(昭和初期)に長野県庁学務課の視学(現在の指導主事)だった土屋傳さんが残した教育行政関係のものが多く含まれており、博物館学や教職を学ぶ学生さんたちにも触れていただきたかったからです。すでに江戸時代の部分は公開されていますが、仮目録だけできているものの電子化されておらず未公開部分が多く残っていました。
 実習生は文書を仮目録にならって整理し、現物とつきあわせながら文字を解読し直します。最初は独特のペン文字に難儀していたようですが、次第に読み込んでいくことができたようです。おかげさまでかなり整理することができました。
 この史料の中には、当時の長野県知事の数々の告辞(卒業式などの祝辞など)を土屋が代理で作成した際の草稿がたくさんあります。時局の進展にともなって、「国家の難局」「銃後」など戦時色の濃い言葉が並んでくることに気づかされます。視学による現場の教師の授業指導書類、教職員の思想動向について県側がかなり神経をとがらせていることをうかがわせる史料も多数あります。今回整理した者は戦前・戦中期の中等教育の指導的な立場にいた側の実態を教えてくれるものです。近日中に公開されることになります。

古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
実習生の整理の様子
古文書公開日記7−土屋家文書の整理 博物館実習より−
土屋傳による知事告辞の草稿
[ 2017-08-31 ]

古文書公開日記6−電気のはなし−

お知らせ

 8月になり毎日蒸し暑い日が続いています。いかがお過ごしでしょうか。クーラーの稼働率が高くなる夏は電気の使用量が増えるのでクールビズや省エネなどできる工夫をしたいものです。
 みなさんは信濃電気株式会社という電気会社があったことはご存じでしょうか。今回、この会社が作成した大正期の図面約150点の整理が終わりました。
 近代の長野県は養蚕業が盛んで、各地に製糸場が作られました。山がちで川が多い長野県では、水力を活用した電力会社も設立されました。多くは製糸工場の経営者によって作られました。須坂町にあった製糸会社山丸組は、1912年には県内外に5工場・1514釜、1927年には県内8工場、県外3工場、総釜数約5000釜を誇る日本最大規模の大製糸場でした。その創設者越寿三郎は夜業が増えたことから防犯・防災のため須坂町内に広く電灯を設置するため電灯会社を設立することを企図しました。1903年、こうして信濃電気株式会社は生まれました。米子(須坂市)に水力発電所を設立したことを皮切りに電力供給が進み、1914年(大正4)には東北信地域に402kmの電線路網を広げ、長野県内最大の電力会社になりました。その後も長野地域を基盤とする電力会社長野電灯に電力を供給するなど順調に運営されていきました。しかし昭和恐慌後の養蚕業の打撃とともに経営が悪化し、長野電灯との合併により社は消滅しました。
 今回の図面は須坂・中野・飯山・山ノ内など北信の村の図で、そこには電線架設場所や電灯の位置などを測量技師によって正確に図面上に落としています。この時期は信濃電気の最盛期であり、須坂地域も野口雨情・中山晋平により「須坂小唄」が作られる(1923年)など華やかな時代でした。今回の図面の多くは、電力需要に湧いたそんな時代を象徴するもので、貴重なものといえます。

古文書公開日記6−電気のはなし−
古文書公開日記6−電気のはなし−
[ 2017-08-11 ]

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)

お知らせ

 いよいよ夏休みですね。山へ海へ歴史館へ・・・楽しいことがいっぱい!。動物好きな子は、動物園だけでなく、当館の縄文ムラに来てみてください。探せば探すほど、たくさんの動物、鳥、昆虫がみつかります。
目で探すだけではありません。耳をすますと、いろいろな動物の鳴き声が聞こえます。あるいは竪穴住居の敷物に触っていたら、ホンモノの動物の毛皮だったりします。展示品には動物の骨で作った製品や縄文人が食べ残した骨。よーく見ると、土器のかざりがヘビの形だったり・・・。ぜひ、縄文ムラと展示コーナーで、どんな生き物が何匹いるか数えてみてください。
 縄文時代と同じように、「昭和のころまでは、こんな風に家の近くにいろいろないきものがいたんだなぁー」と実感してみてください(「今でもいるよ」との声も聞こえそうですが)。
 近ごろ、数が増えて、人里近くにも出没するようになった動物。そのうちの一種類が鳴いていますが、当ててくれる子どもがなかなかいません。「鳥?」とかん違いされます。さて、どんな動物でしょうか。ヒント、近ごろ増えたといえばシカ、イノシシ、クマ、サル、さて正解は常設展示室で鳴き声を聞いてみてください。
 ちなみに、かわいい!と評判になったウ〜リィちゃん(幼いイノシシの子)も縄文ムラの中をほんの少し移動しました。猛毒のトリカブトの近くです。動物は毒のある草をよく知っているので、噛んだりはしなかったと思います。縄文人も、よ〜く知っていたと思われるので、この草は薬になる。この草は食べられる・・・。トリカブトは毒があるから矢の先(石鏃)につけて・・・なんて風に使っていたかもしれません。

縄文ムラのウ〜リィちゃんを探してみよう(3)
[ 2017-07-28 ]

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−

お知らせ

筑摩郡上生坂村(現在の東筑摩郡生坂村)文書を整理し終わりました。点数は33点ですが、いずれも18世紀前半のものばかりで、当館では比較的古い時代の文書群に位置付きます。文書自体は金子の受取覚や訴訟関係のものなどで構成されています。上生坂村は江戸時代は麻績組に属しており、安曇郡とも接する中山間地でした。生坂煙草と呼ばれる葉煙草や麻の産地でした。今回の整理で興味深かったのはこの地域の絵図面が袋に束ねて収められていたことです。近村の市野川村(現在の麻績村)や麻績町村(同村)の絵図は彩色豊かに描かれています。このなかで唯一異色だったものは、1866(慶応2)年の第二次長州征討(長州藩では四境戦争と呼びます)の配陣図が混入していたことです。文書の持ち主によって描かれたものか収集したものかは不明ですが、絵図面の袋に他の村絵図とともにまとめて入っていたものなので何らかの経緯でこの家にもたらされたのでしょうか。寅六月十四・十五日の打合と記され、小瀬川を挟んで毛利隊と幕府軍が対陣している様子から大竹村(広島県大竹市)の「藝州口の戦い」の様子を描いているようです。長州軍が鉄砲を放ち雷鳴をとどろかしていることなどが見て取れます。彦根藩主井伊直憲、高田藩主榊原政敬などの名前も見えます。小瀬川を渡ろうとする井伊軍は、川岸から集中攻撃を受け、さらに瀬田八幡宮山から大砲が浴びせられ、小瀬川が血の海になったと伝えられています。幕府方の人名記述が詳細なことから、おそらく幕府方に参加したものによって記されたものでしょう。長州征討が失敗に終わったことから幕府の威信は急速に失墜し翌年の幕府滅亡へとつながりました。幕末の動乱を示す資料といえるのではないでしょうか。

古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
古文書公開日記5−第2次長州征討(四境戦争)の図−
[ 2017-07-13 ]

お待たせしました! ナウマン君復活です。

お知らせ

 常設展示室でみなさんをお迎えしていたナウマン君。観覧者がやってくると、まばたきしながら、大きく首を振って歓迎していたのですが・・・。首筋を痛めてしまい、連休明けから6月いっぱい、お休みをいただいておりました。
 「このゾウ動くんだよ」と教えてくれたリピーターの子どもたち、待っても待っても動かないので「あれ?・・・」。がっかりさせてごめんなさい。7月2日・3日に行った手術が成功し、7月4日(火)には元気いっぱい復帰しました。
 ところで、この子の年齢は23歳。復元された体格から男の子。開館当時に出会った子どもたちもりっぱな大人ですね。元気になったナウマン君に、もう一度会いに来てみませんか。そして、いっしょに来たお子さんや家族、恋人・友人、あるいはたまたま居合わせた人に、変わらぬ勇姿を伝えてあげてください。ナウマン君も自慢げにうなずいてくれることでしょう。
 ちなみに動物園で飼育されているアジアゾウの国内最高齢は、昨年、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で亡くなった花子の69歳。また、北海道で発掘されたナウマンゾウ化石は、少なくとも40歳以上とされています。
 さて、完全復活したわが歴史館のナウマンゾウは、何歳くらいまでみなさんをお迎えできるでしょうか。

お待たせしました! ナウマン君復活です。
7月4日 「元気になったよ!」職員と復活のごあいさつ
お待たせしました! ナウマン君復活です。
2ヶ月ちかく、休養してました。
[ 2017-07-05 ]

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!

お知らせ

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」の見どころ
 「銀座nagano」は、長野県が首都圏、世界とつながっていく拠点として平成26年に開設されたものですが、正式には「銀座nagano しあわせ信州シェアスペース」と呼びます。「nagano」と「信州」。一つの地域を指すのに、なぜわざわざ二つの地名を使うのか、皆さまは首都圏や世界の方々にうまく説明できますか。
 行政単位としての長野県の誕生は明治9年、1876年ですが、名実ともに県の基盤が確立するのは明治33年(1900年)の府県制・郡制の制定を待ってでした。明治33年は、浅井 洌・北村季晴コンビによる「信濃の国」が誕生した年でもあります。そして「信濃の国」は、昭和43年、長野県歌に指定されました。
 「長野県」と「信濃(あるいは信州)」。同一の地域を指しながら、なぜ私たちはこの2つの地名を使い続けているのでしょうか。なぜ、「信濃(信州)」という地名に今もこだわりを持ち続けているのでしょうか。
 幕末の信濃地域は十余の藩と幕府領が複雑に入り込み、統一した社会のかたちをなしていませんでした。また、もともと広い地域です。東西南北で気候も文化も違い、とくに南北では日常生活のなかの習俗や考え方が随分異なっていると言われています。多くの峠と川によって区切られた地域毎に独自の文化が息づいているところに、この地域の特色があります。このように考えたとき、明治のはじめ、わずか十年ほどで現在の長野県が成立したという史実は驚くべきことです。
 しかし、であるからこそ、長野県誕生への道は平坦なものではありませんでした。わずかな期間に、伊那県、中野県、筑摩県などいくつもの新しい行政組織が誕生し、消えていきました。複雑な入り込みを解消して一つの県に統合しようとする力が強く働く一方、地域ごとの独自性を尊重する立場から分散を指向する力も絶えず働いていたのです。また、長野県誕生後も、統合と分散の力のせめぎ合いから、分県論、県庁移転論が度々主張されることになりました。「長野」と「信濃(信州)」という、言葉ではうまく説明できない微妙なニュアンスの違いに対する私たち県民のこだわりは、今から150年前の長野県誕生の瞬間に由来するといってもよいでしょう。
 県立歴史館では、7月8日(土)から「平成29年度夏季企画展 長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」を開催します。当館は、長野県の公文書館としての役割を担っています。当館が所蔵する幕末明治期の行政文書(長野県宝)を精査し、長野県誕生のその時何が起こったのか、この体験から私たちは今、何をくみ取ればよいのか、県民の皆さまと一緒に考えてようとする企画です。
「人間は歴史的動物」と言われます。歩んできた道を振り返り、過去を見つめることで、たくさんのヒント、教訓を発見し、今を変革し、未来を創造する動物です。「長野県」や「長野県民」は当たり前のように存在するものではありません。また、住民の中に初めから「私たちは長野県民である」という一体感(アイデンティティ)が備わっているわけでもありません。
 リニア時代をひかえ、県下の諸地域がそれぞれ独自のかたちで首都圏や世界と繋がる方法を模索しています。県民意識も大きく変わろうとしています。こうした時期に、もう一度長野県誕生の瞬間に立ち会ってみませんか。「長野」と「信濃(信州)」の2つの言葉に向かい合ってみませんか。
 長野県誕生から約1世紀半が経ちました。つぎの1世紀に向けて私たちは何を手渡せばよいのでしょうか。この企画展は、そのヒントを見つけ出す絶好の場です。是非、ご来館下さい。
(学芸部長 青木 隆幸)

夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
筑摩県博覧会「錦絵」 1873(明治6)年 (当館蔵)
夏季企画展 「長野県誕生!−公文書・古文書から読みとく−」 7月8日より開催!
五榜の掲示 1868(慶応4)年 (個人蔵・上田市立博物館寄託)
[ 2017-06-30 ]

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜

お知らせ

 秋季企画展の名称が「進化する縄文土器〜流れるもようと区画もよう〜」に決まり、本格的な準備に入りました。縄文時代中期中葉(約5,400〜5,000年前)における縄文土器のかざりは、(1)流れるもようが軸になる東北信〜北陸と、(2)区画もようが基盤の中南信〜西関東のように、地域差を強調する方向で進化します。
 例えば、土偶を土器のかざりに取り込んだ南信〜西関東では、土偶はしだいに大きく、丁寧に、さまざまな文様が追加され、他のかざりと合成・合体して進化します(土偶とはわからなくなっていきます)。その到達点が、富士見町藤内(とうない)遺跡の「神像土器」と呼ばれる土器です(写真右)。一方、その他の地域では、土器に土偶が貼りつくなどもっての外、と言わんばかりに、ほとんど作られることがありません。
 しかし、縄文人が排他的な人たちだったのかというとそうでもなく、交流は盛んだったようです。あえて他地域とは違う「おクニ自慢」の優品を持ち込んだり、現地製作?しています。そして、持ち込まれた土器を見ては、ちょっぴり真似したりしています。「神像土器」に描かれた区画文も、元はと言えば、北陸の前時代に流行っていたのを南信〜西関東の縄文人が真似し、アレンジして独自進化をとげた文様です。
 もう一つ、交流関係を示す面白い土器が、今、常設展示室に飾ってあります。筑北村の東畑(ひがしばた)遺跡の土器(写真左)です。よくみると、最高傑作の「神像土器」を一回りも二回りも小さくし、土偶のかざりも簡略化した妹(弟)分のような土器です。この時期の東畑遺跡では東北信の焼町式土器が主になっています。もしかすると、友好関係のために諏訪・松本方面から運ばれてきたのかもしれません。
 同じような事例は、茅野市棚畑(たなばたけ)遺跡出土の国宝「縄文のビーナス」でも見られます。ビーナスと似た顔で、簡略化された帽子を被り、一回りも二回りも小さい土偶が山梨や塩尻市の遺跡から見つかっています。友好関係のネットワークを築くため、妹分が派遣されたのかもしれません。

友好関係の示す姉妹品〜縄文土器展への招待状 その5〜
左>筑北村東畑遺跡 顔(円文)と土偶の肩〜背部分などが簡略化されて表現されている。右>の藤内遺跡(当館蔵レプリカ)を知らないと、土偶装飾とはわからないかも
[ 2017-06-28 ]

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開

お知らせ

平成13(2001)年6月、千曲市八幡の社宮司(しゃぐうじ)遺跡から、平安時代末期(11世紀から12世紀)の製作と推定される木製の仏塔が出土しました。仏塔は擬宝珠(ぎほうじゅ)、笠、蕨手(わらびて)、風招(ふうしょう)、風鐸(ふうたく)、幢身(どうしん)からなり、それぞれクリ、ケンポナシ、サワラ、ヒノキ、エノキと違った木材で製作されていました。これまで平安時代末期の様子を描いた『餓鬼草紙』(がきぞうし)などでしか知ることのできなかった仏塔の資料が、国内で初めて遺跡から出土したのです。その性格付けは発掘当時、供養塔あるいは信仰の対象物と考えられ、鎌倉時代以降に製作される「石幢」(いしどう)以前の製作物として「木幢」(もくどう)と名づけられました。しかし、その後研究によって、仏教儀礼の空間を飾る荘厳具との位置づけが示され、平安時代における地方の仏教文化を知る比類のない重要資料と評価され、「木造六角宝幢」と改称されて長野県宝に指定されました。

特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢(複製)
特別企画 長野県宝「木造六角宝幢(ろっかくほうどう)」(複製)の公開
木造六角宝幢解説パネル
[ 2017-06-08 ]
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