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華やかな土器文化と生業(なりわい)

塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器
塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器

開催期間:平成29年3月〜

縄文時代中期(約5,000年前)の中部高地では、各地で独創的な飾りの土器が作られるようになりました。その背景には、狩猟・採集中心だった生業に加え、クリ林の管理やダイズ・アズキの栽培技術が発展し、生活が安定したことがありました。
一方、石器の良質な材料である黒曜石や、装飾品となるヒスイは交易によって流通しました。地域毎に特徴ある土器は、交易などの際に“地域の顔”として運ばれました。
土器の作り手たちは、運ばれてきた他地域の土器の良い点をまねし、あるいは違いを強調することで、より一層、華やかな土器を作るようになっていきました。



東山道をむすぶ


開催期間:平成29年3月〜

7世紀後半になると、朝廷は、畿内七道という大きな行政区画にそれぞれ属す「国」を単位として全国を支配する仕組みを整えました。七道は朝廷が地方を統治するために建設した官道の名称であるとともに、その官道によって結ばれた諸国全体を指す名称でもありました。
 信濃(科野)国には畿内と東の地域をむすぶ東山道〈とうさ(せ)んどう〉と、筑摩郡内で東山道から分岐し、越後国で北陸道とむすばれる支道が整備されました。この古代の道が政治的に重要であったことは、推定される東山道や支道に沿った地域の遺跡から、律令政府が鋳造発行した銭貨が見つかっていることからもうかがえます。
 富本銭や和同開珎にはじまる皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉の鋳造発行は、国家的事業として実施されました。都の周辺を中心に流通していたこれらの銭貨は、当時の律令体制という政治システムの中で、東山道を通じて信濃国へもたらされたのです。
 古代の信濃国の範囲からは、富本銭や和同開珎銀銭をはじめ、12種類の銭貨が見つかっています。それらを展示します。



川中島合戦図屏風

川中島合戦図屏風(当館蔵)
川中島合戦図屏風(当館蔵)

開催期間:平成28年11月〜

 川中島合戦は、天文22年、村上義清の一族、屋代氏、塩崎氏が離反したことを発端とします。義清の居城葛尾城は武田晴信のまえに自落したため、義清は高梨、須田、嶋津などほかの領主とともに上杉謙信に救援を要請しました。奥郡とよばれた善光寺平一帯で繰り広げられた武田と上杉の十余年におよぶ戦いを「川中島合戦」とよびます。
 六曲一隻屏風「川中島合戦図屏風」は、江戸時代、『甲陽軍鑑』をもとに町絵師が描いたものです。信玄と謙信の一騎打ちは、軍記物から絵本や浮世絵などを通し、広く庶民に伝えられました。



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東アジアと信濃


開催期間:平成29年4月〜

 鎌倉時代から戦国時代まで日本では独自の流通貨幣を鋳造(ちゆうぞう)せず、中国から輸入した銅銭を使用していました。東アジア経済圏に組み込まれていたのです。当時は1枚の銅銭を一文(いちもん)(約3.75グラム)、1000枚で一貫という単位でした。展示コーナー横では、実際に銭一貫文の重さを体験することができます。銅銭だけでなく、中国で作られ、日本に運ばれた青磁花瓶(せいじけびょう)や青磁盤(せいじばん)も展示します。
 伊那郡の知久氏出身の禅僧 天与清啓(てんよせいけい)は遣明正使として二度中国へ渡っています。雪舟等楊(せっしゅうとうよう)の描いた湖亭春望図(こていしゅんぼうず)に清啓が賛(さん)(漢詩文)を記しています。清啓の二度目の船には雪舟が乗船しており、雪舟の画に清啓が漢詩文を記したことから二人の深い交流がしのばれます。今回は、この湖亭春望図(複製)を展示します。
 中世の信濃では、中国から入ってきた禅宗の文化や陶磁器、銭などがとりいれられ、大陸と直接交流を持つ人びとも活躍していました。東アジアと深く関わっていたことが伺えます。



街道の風景


開催期間:平成29年3月〜平成30年2月

 庶民に経済力がついてくる江戸時代後期になると、街道は寺社参詣・物見遊山(ものみゆさん)の旅行者でにぎわうようになりました。
 善光寺参りは、伊勢参りと並んで代表的な庶民の旅です。江戸をはじめ各地に善光寺講が組織され、善光寺や街道は参詣者でにぎわいました。善光寺に通じる道は、「善光寺道」とか「善光寺街道」と呼ばれ、街道には善光寺への道標が建てられ、旅のガイドブックも刊行されるほどでした。このガイドブックは片手で持ち歩ける大きさのハンドブックで、宿場ごとに宿屋を記した本や、街道の様子を絵や説明文で表した本などがあります。
 江戸時代の絵師によって描かれた浮世絵風景画『木曽海道六十九次之内』からは、各宿場周辺における街道や旅人の様子を伺うことができます。旅人は、どんな服装・持ち物で旅をしたのでしょう。装束の一部であるマント・笠・草鞋(わらじ)の模造品を展示します。旅の携行品としては、行李(こうり)・印籠(いんろう)・矢立・煙管(きせる)・財布・銭・小田原提灯(ちょうちん)などを展示します。



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満洲北部の開拓団の村スケッチ

満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)
満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)

開催期間:平成28年9月〜

 作者の丸田恒雄氏は、1919年(大正8年)に更級農学校を卒業後、日本農民美術研究所(現・上田市)で山本鼎(かなえ)や倉田白羊(はくよう)、石井鶴三(つるぞう)等に師事し木彫・絵画・石膏を学びました。その後、長野工業学校家具科を卒業後、県内の複数の学校で教鞭をとりました。母校の更級農学校に勤務した期間に、校長を通じて満洲開拓民への家具調度品の作り方の教授依頼があり、1937年(昭和12年)8月に満洲視察で訪れています。なお、氏は「更農式水田線引機」を発明したことで視察の3ヶ月前に帝国発明功労表彰会から表彰されています。
 また、1940年(昭和15年)6月より9月まで「更級郷奉仕隊」として、生徒を引率して再び満洲に勤労奉仕に出向きました。スケッチはこのときに描いたものです。
 当時の開拓風景、家屋、生活道具、動植物などの様子を伝える貴重なスケッチで、更級農業高校の文化祭等でも展示されました。氏は絵をたくさん残しましたが、満洲行きに同行した生徒が当時を懐かしがって、氏が絵を譲られたことも多いそうです。寄贈されたスケッチ60点余りのうち、3点を公開しています。



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華やかな土器文化と生業(なりわい)

塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器
塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器

開催期間:平成29年3月〜

縄文時代中期(約5,000年前)の中部高地では、各地で独創的な飾りの土器が作られるようになりました。その背景には、狩猟・採集中心だった生業に加え、クリ林の管理やダイズ・アズキの栽培技術が発展し、生活が安定したことがありました。
一方、石器の良質な材料である黒曜石や、装飾品となるヒスイは交易によって流通しました。地域毎に特徴ある土器は、交易などの際に“地域の顔”として運ばれました。
土器の作り手たちは、運ばれてきた他地域の土器の良い点をまねし、あるいは違いを強調することで、より一層、華やかな土器を作るようになっていきました。



東山道をむすぶ


開催期間:平成29年3月〜

7世紀後半になると、朝廷は、畿内七道という大きな行政区画にそれぞれ属す「国」を単位として全国を支配する仕組みを整えました。七道は朝廷が地方を統治するために建設した官道の名称であるとともに、その官道によって結ばれた諸国全体を指す名称でもありました。
 信濃(科野)国には畿内と東の地域をむすぶ東山道〈とうさ(せ)んどう〉と、筑摩郡内で東山道から分岐し、越後国で北陸道とむすばれる支道が整備されました。この古代の道が政治的に重要であったことは、推定される東山道や支道に沿った地域の遺跡から、律令政府が鋳造発行した銭貨が見つかっていることからもうかがえます。
 富本銭や和同開珎にはじまる皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉の鋳造発行は、国家的事業として実施されました。都の周辺を中心に流通していたこれらの銭貨は、当時の律令体制という政治システムの中で、東山道を通じて信濃国へもたらされたのです。
 古代の信濃国の範囲からは、富本銭や和同開珎銀銭をはじめ、12種類の銭貨が見つかっています。それらを展示します。



川中島合戦図屏風

川中島合戦図屏風(当館蔵)
川中島合戦図屏風(当館蔵)

開催期間:平成28年11月〜

 川中島合戦は、天文22年、村上義清の一族、屋代氏、塩崎氏が離反したことを発端とします。義清の居城葛尾城は武田晴信のまえに自落したため、義清は高梨、須田、嶋津などほかの領主とともに上杉謙信に救援を要請しました。奥郡とよばれた善光寺平一帯で繰り広げられた武田と上杉の十余年におよぶ戦いを「川中島合戦」とよびます。
 六曲一隻屏風「川中島合戦図屏風」は、江戸時代、『甲陽軍鑑』をもとに町絵師が描いたものです。信玄と謙信の一騎打ちは、軍記物から絵本や浮世絵などを通し、広く庶民に伝えられました。



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東アジアと信濃


開催期間:平成29年4月〜

 鎌倉時代から戦国時代まで日本では独自の流通貨幣を鋳造(ちゆうぞう)せず、中国から輸入した銅銭を使用していました。東アジア経済圏に組み込まれていたのです。当時は1枚の銅銭を一文(いちもん)(約3.75グラム)、1000枚で一貫という単位でした。展示コーナー横では、実際に銭一貫文の重さを体験することができます。銅銭だけでなく、中国で作られ、日本に運ばれた青磁花瓶(せいじけびょう)や青磁盤(せいじばん)も展示します。
 伊那郡の知久氏出身の禅僧 天与清啓(てんよせいけい)は遣明正使として二度中国へ渡っています。雪舟等楊(せっしゅうとうよう)の描いた湖亭春望図(こていしゅんぼうず)に清啓が賛(さん)(漢詩文)を記しています。清啓の二度目の船には雪舟が乗船しており、雪舟の画に清啓が漢詩文を記したことから二人の深い交流がしのばれます。今回は、この湖亭春望図(複製)を展示します。
 中世の信濃では、中国から入ってきた禅宗の文化や陶磁器、銭などがとりいれられ、大陸と直接交流を持つ人びとも活躍していました。東アジアと深く関わっていたことが伺えます。



街道の風景


開催期間:平成29年3月〜平成30年2月

 庶民に経済力がついてくる江戸時代後期になると、街道は寺社参詣・物見遊山(ものみゆさん)の旅行者でにぎわうようになりました。
 善光寺参りは、伊勢参りと並んで代表的な庶民の旅です。江戸をはじめ各地に善光寺講が組織され、善光寺や街道は参詣者でにぎわいました。善光寺に通じる道は、「善光寺道」とか「善光寺街道」と呼ばれ、街道には善光寺への道標が建てられ、旅のガイドブックも刊行されるほどでした。このガイドブックは片手で持ち歩ける大きさのハンドブックで、宿場ごとに宿屋を記した本や、街道の様子を絵や説明文で表した本などがあります。
 江戸時代の絵師によって描かれた浮世絵風景画『木曽海道六十九次之内』からは、各宿場周辺における街道や旅人の様子を伺うことができます。旅人は、どんな服装・持ち物で旅をしたのでしょう。装束の一部であるマント・笠・草鞋(わらじ)の模造品を展示します。旅の携行品としては、行李(こうり)・印籠(いんろう)・矢立・煙管(きせる)・財布・銭・小田原提灯(ちょうちん)などを展示します。



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満洲北部の開拓団の村スケッチ

満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)
満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)

開催期間:平成28年9月〜

 作者の丸田恒雄氏は、1919年(大正8年)に更級農学校を卒業後、日本農民美術研究所(現・上田市)で山本鼎(かなえ)や倉田白羊(はくよう)、石井鶴三(つるぞう)等に師事し木彫・絵画・石膏を学びました。その後、長野工業学校家具科を卒業後、県内の複数の学校で教鞭をとりました。母校の更級農学校に勤務した期間に、校長を通じて満洲開拓民への家具調度品の作り方の教授依頼があり、1937年(昭和12年)8月に満洲視察で訪れています。なお、氏は「更農式水田線引機」を発明したことで視察の3ヶ月前に帝国発明功労表彰会から表彰されています。
 また、1940年(昭和15年)6月より9月まで「更級郷奉仕隊」として、生徒を引率して再び満洲に勤労奉仕に出向きました。スケッチはこのときに描いたものです。
 当時の開拓風景、家屋、生活道具、動植物などの様子を伝える貴重なスケッチで、更級農業高校の文化祭等でも展示されました。氏は絵をたくさん残しましたが、満洲行きに同行した生徒が当時を懐かしがって、氏が絵を譲られたことも多いそうです。寄贈されたスケッチ60点余りのうち、3点を公開しています。



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華やかな土器文化と生業(なりわい)

塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器
塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器

開催期間:平成29年3月〜

縄文時代中期(約5,000年前)の中部高地では、各地で独創的な飾りの土器が作られるようになりました。その背景には、狩猟・採集中心だった生業に加え、クリ林の管理やダイズ・アズキの栽培技術が発展し、生活が安定したことがありました。
一方、石器の良質な材料である黒曜石や、装飾品となるヒスイは交易によって流通しました。地域毎に特徴ある土器は、交易などの際に“地域の顔”として運ばれました。
土器の作り手たちは、運ばれてきた他地域の土器の良い点をまねし、あるいは違いを強調することで、より一層、華やかな土器を作るようになっていきました。



東山道をむすぶ


開催期間:平成29年3月〜

7世紀後半になると、朝廷は、畿内七道という大きな行政区画にそれぞれ属す「国」を単位として全国を支配する仕組みを整えました。七道は朝廷が地方を統治するために建設した官道の名称であるとともに、その官道によって結ばれた諸国全体を指す名称でもありました。
 信濃(科野)国には畿内と東の地域をむすぶ東山道〈とうさ(せ)んどう〉と、筑摩郡内で東山道から分岐し、越後国で北陸道とむすばれる支道が整備されました。この古代の道が政治的に重要であったことは、推定される東山道や支道に沿った地域の遺跡から、律令政府が鋳造発行した銭貨が見つかっていることからもうかがえます。
 富本銭や和同開珎にはじまる皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉の鋳造発行は、国家的事業として実施されました。都の周辺を中心に流通していたこれらの銭貨は、当時の律令体制という政治システムの中で、東山道を通じて信濃国へもたらされたのです。
 古代の信濃国の範囲からは、富本銭や和同開珎銀銭をはじめ、12種類の銭貨が見つかっています。それらを展示します。



川中島合戦図屏風

川中島合戦図屏風(当館蔵)
川中島合戦図屏風(当館蔵)

開催期間:平成28年11月〜

 川中島合戦は、天文22年、村上義清の一族、屋代氏、塩崎氏が離反したことを発端とします。義清の居城葛尾城は武田晴信のまえに自落したため、義清は高梨、須田、嶋津などほかの領主とともに上杉謙信に救援を要請しました。奥郡とよばれた善光寺平一帯で繰り広げられた武田と上杉の十余年におよぶ戦いを「川中島合戦」とよびます。
 六曲一隻屏風「川中島合戦図屏風」は、江戸時代、『甲陽軍鑑』をもとに町絵師が描いたものです。信玄と謙信の一騎打ちは、軍記物から絵本や浮世絵などを通し、広く庶民に伝えられました。



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東アジアと信濃


開催期間:平成29年4月〜

 鎌倉時代から戦国時代まで日本では独自の流通貨幣を鋳造(ちゆうぞう)せず、中国から輸入した銅銭を使用していました。東アジア経済圏に組み込まれていたのです。当時は1枚の銅銭を一文(いちもん)(約3.75グラム)、1000枚で一貫という単位でした。展示コーナー横では、実際に銭一貫文の重さを体験することができます。銅銭だけでなく、中国で作られ、日本に運ばれた青磁花瓶(せいじけびょう)や青磁盤(せいじばん)も展示します。
 伊那郡の知久氏出身の禅僧 天与清啓(てんよせいけい)は遣明正使として二度中国へ渡っています。雪舟等楊(せっしゅうとうよう)の描いた湖亭春望図(こていしゅんぼうず)に清啓が賛(さん)(漢詩文)を記しています。清啓の二度目の船には雪舟が乗船しており、雪舟の画に清啓が漢詩文を記したことから二人の深い交流がしのばれます。今回は、この湖亭春望図(複製)を展示します。
 中世の信濃では、中国から入ってきた禅宗の文化や陶磁器、銭などがとりいれられ、大陸と直接交流を持つ人びとも活躍していました。東アジアと深く関わっていたことが伺えます。



街道の風景


開催期間:平成29年3月〜平成30年2月

 庶民に経済力がついてくる江戸時代後期になると、街道は寺社参詣・物見遊山(ものみゆさん)の旅行者でにぎわうようになりました。
 善光寺参りは、伊勢参りと並んで代表的な庶民の旅です。江戸をはじめ各地に善光寺講が組織され、善光寺や街道は参詣者でにぎわいました。善光寺に通じる道は、「善光寺道」とか「善光寺街道」と呼ばれ、街道には善光寺への道標が建てられ、旅のガイドブックも刊行されるほどでした。このガイドブックは片手で持ち歩ける大きさのハンドブックで、宿場ごとに宿屋を記した本や、街道の様子を絵や説明文で表した本などがあります。
 江戸時代の絵師によって描かれた浮世絵風景画『木曽海道六十九次之内』からは、各宿場周辺における街道や旅人の様子を伺うことができます。旅人は、どんな服装・持ち物で旅をしたのでしょう。装束の一部であるマント・笠・草鞋(わらじ)の模造品を展示します。旅の携行品としては、行李(こうり)・印籠(いんろう)・矢立・煙管(きせる)・財布・銭・小田原提灯(ちょうちん)などを展示します。



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満洲北部の開拓団の村スケッチ

満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)
満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)

開催期間:平成28年9月〜

 作者の丸田恒雄氏は、1919年(大正8年)に更級農学校を卒業後、日本農民美術研究所(現・上田市)で山本鼎(かなえ)や倉田白羊(はくよう)、石井鶴三(つるぞう)等に師事し木彫・絵画・石膏を学びました。その後、長野工業学校家具科を卒業後、県内の複数の学校で教鞭をとりました。母校の更級農学校に勤務した期間に、校長を通じて満洲開拓民への家具調度品の作り方の教授依頼があり、1937年(昭和12年)8月に満洲視察で訪れています。なお、氏は「更農式水田線引機」を発明したことで視察の3ヶ月前に帝国発明功労表彰会から表彰されています。
 また、1940年(昭和15年)6月より9月まで「更級郷奉仕隊」として、生徒を引率して再び満洲に勤労奉仕に出向きました。スケッチはこのときに描いたものです。
 当時の開拓風景、家屋、生活道具、動植物などの様子を伝える貴重なスケッチで、更級農業高校の文化祭等でも展示されました。氏は絵をたくさん残しましたが、満洲行きに同行した生徒が当時を懐かしがって、氏が絵を譲られたことも多いそうです。寄贈されたスケッチ60点余りのうち、3点を公開しています。



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華やかな土器文化と生業(なりわい)

塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器
塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器

開催期間:平成29年3月〜

縄文時代中期(約5,000年前)の中部高地では、各地で独創的な飾りの土器が作られるようになりました。その背景には、狩猟・採集中心だった生業に加え、クリ林の管理やダイズ・アズキの栽培技術が発展し、生活が安定したことがありました。
一方、石器の良質な材料である黒曜石や、装飾品となるヒスイは交易によって流通しました。地域毎に特徴ある土器は、交易などの際に“地域の顔”として運ばれました。
土器の作り手たちは、運ばれてきた他地域の土器の良い点をまねし、あるいは違いを強調することで、より一層、華やかな土器を作るようになっていきました。



東山道をむすぶ


開催期間:平成29年3月〜

7世紀後半になると、朝廷は、畿内七道という大きな行政区画にそれぞれ属す「国」を単位として全国を支配する仕組みを整えました。七道は朝廷が地方を統治するために建設した官道の名称であるとともに、その官道によって結ばれた諸国全体を指す名称でもありました。
 信濃(科野)国には畿内と東の地域をむすぶ東山道〈とうさ(せ)んどう〉と、筑摩郡内で東山道から分岐し、越後国で北陸道とむすばれる支道が整備されました。この古代の道が政治的に重要であったことは、推定される東山道や支道に沿った地域の遺跡から、律令政府が鋳造発行した銭貨が見つかっていることからもうかがえます。
 富本銭や和同開珎にはじまる皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉の鋳造発行は、国家的事業として実施されました。都の周辺を中心に流通していたこれらの銭貨は、当時の律令体制という政治システムの中で、東山道を通じて信濃国へもたらされたのです。
 古代の信濃国の範囲からは、富本銭や和同開珎銀銭をはじめ、12種類の銭貨が見つかっています。それらを展示します。



川中島合戦図屏風

川中島合戦図屏風(当館蔵)
川中島合戦図屏風(当館蔵)

開催期間:平成28年11月〜

 川中島合戦は、天文22年、村上義清の一族、屋代氏、塩崎氏が離反したことを発端とします。義清の居城葛尾城は武田晴信のまえに自落したため、義清は高梨、須田、嶋津などほかの領主とともに上杉謙信に救援を要請しました。奥郡とよばれた善光寺平一帯で繰り広げられた武田と上杉の十余年におよぶ戦いを「川中島合戦」とよびます。
 六曲一隻屏風「川中島合戦図屏風」は、江戸時代、『甲陽軍鑑』をもとに町絵師が描いたものです。信玄と謙信の一騎打ちは、軍記物から絵本や浮世絵などを通し、広く庶民に伝えられました。



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東アジアと信濃


開催期間:平成29年4月〜

 鎌倉時代から戦国時代まで日本では独自の流通貨幣を鋳造(ちゆうぞう)せず、中国から輸入した銅銭を使用していました。東アジア経済圏に組み込まれていたのです。当時は1枚の銅銭を一文(いちもん)(約3.75グラム)、1000枚で一貫という単位でした。展示コーナー横では、実際に銭一貫文の重さを体験することができます。銅銭だけでなく、中国で作られ、日本に運ばれた青磁花瓶(せいじけびょう)や青磁盤(せいじばん)も展示します。
 伊那郡の知久氏出身の禅僧 天与清啓(てんよせいけい)は遣明正使として二度中国へ渡っています。雪舟等楊(せっしゅうとうよう)の描いた湖亭春望図(こていしゅんぼうず)に清啓が賛(さん)(漢詩文)を記しています。清啓の二度目の船には雪舟が乗船しており、雪舟の画に清啓が漢詩文を記したことから二人の深い交流がしのばれます。今回は、この湖亭春望図(複製)を展示します。
 中世の信濃では、中国から入ってきた禅宗の文化や陶磁器、銭などがとりいれられ、大陸と直接交流を持つ人びとも活躍していました。東アジアと深く関わっていたことが伺えます。



街道の風景


開催期間:平成29年3月〜平成30年2月

 庶民に経済力がついてくる江戸時代後期になると、街道は寺社参詣・物見遊山(ものみゆさん)の旅行者でにぎわうようになりました。
 善光寺参りは、伊勢参りと並んで代表的な庶民の旅です。江戸をはじめ各地に善光寺講が組織され、善光寺や街道は参詣者でにぎわいました。善光寺に通じる道は、「善光寺道」とか「善光寺街道」と呼ばれ、街道には善光寺への道標が建てられ、旅のガイドブックも刊行されるほどでした。このガイドブックは片手で持ち歩ける大きさのハンドブックで、宿場ごとに宿屋を記した本や、街道の様子を絵や説明文で表した本などがあります。
 江戸時代の絵師によって描かれた浮世絵風景画『木曽海道六十九次之内』からは、各宿場周辺における街道や旅人の様子を伺うことができます。旅人は、どんな服装・持ち物で旅をしたのでしょう。装束の一部であるマント・笠・草鞋(わらじ)の模造品を展示します。旅の携行品としては、行李(こうり)・印籠(いんろう)・矢立・煙管(きせる)・財布・銭・小田原提灯(ちょうちん)などを展示します。



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満洲北部の開拓団の村スケッチ

満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)
満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)

開催期間:平成28年9月〜

 作者の丸田恒雄氏は、1919年(大正8年)に更級農学校を卒業後、日本農民美術研究所(現・上田市)で山本鼎(かなえ)や倉田白羊(はくよう)、石井鶴三(つるぞう)等に師事し木彫・絵画・石膏を学びました。その後、長野工業学校家具科を卒業後、県内の複数の学校で教鞭をとりました。母校の更級農学校に勤務した期間に、校長を通じて満洲開拓民への家具調度品の作り方の教授依頼があり、1937年(昭和12年)8月に満洲視察で訪れています。なお、氏は「更農式水田線引機」を発明したことで視察の3ヶ月前に帝国発明功労表彰会から表彰されています。
 また、1940年(昭和15年)6月より9月まで「更級郷奉仕隊」として、生徒を引率して再び満洲に勤労奉仕に出向きました。スケッチはこのときに描いたものです。
 当時の開拓風景、家屋、生活道具、動植物などの様子を伝える貴重なスケッチで、更級農業高校の文化祭等でも展示されました。氏は絵をたくさん残しましたが、満洲行きに同行した生徒が当時を懐かしがって、氏が絵を譲られたことも多いそうです。寄贈されたスケッチ60点余りのうち、3点を公開しています。



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華やかな土器文化と生業(なりわい)

塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器
塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器

開催期間:平成29年3月〜

縄文時代中期(約5,000年前)の中部高地では、各地で独創的な飾りの土器が作られるようになりました。その背景には、狩猟・採集中心だった生業に加え、クリ林の管理やダイズ・アズキの栽培技術が発展し、生活が安定したことがありました。
一方、石器の良質な材料である黒曜石や、装飾品となるヒスイは交易によって流通しました。地域毎に特徴ある土器は、交易などの際に“地域の顔”として運ばれました。
土器の作り手たちは、運ばれてきた他地域の土器の良い点をまねし、あるいは違いを強調することで、より一層、華やかな土器を作るようになっていきました。



東山道をむすぶ


開催期間:平成29年3月〜

7世紀後半になると、朝廷は、畿内七道という大きな行政区画にそれぞれ属す「国」を単位として全国を支配する仕組みを整えました。七道は朝廷が地方を統治するために建設した官道の名称であるとともに、その官道によって結ばれた諸国全体を指す名称でもありました。
 信濃(科野)国には畿内と東の地域をむすぶ東山道〈とうさ(せ)んどう〉と、筑摩郡内で東山道から分岐し、越後国で北陸道とむすばれる支道が整備されました。この古代の道が政治的に重要であったことは、推定される東山道や支道に沿った地域の遺跡から、律令政府が鋳造発行した銭貨が見つかっていることからもうかがえます。
 富本銭や和同開珎にはじまる皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉の鋳造発行は、国家的事業として実施されました。都の周辺を中心に流通していたこれらの銭貨は、当時の律令体制という政治システムの中で、東山道を通じて信濃国へもたらされたのです。
 古代の信濃国の範囲からは、富本銭や和同開珎銀銭をはじめ、12種類の銭貨が見つかっています。それらを展示します。



川中島合戦図屏風

川中島合戦図屏風(当館蔵)
川中島合戦図屏風(当館蔵)

開催期間:平成28年11月〜

 川中島合戦は、天文22年、村上義清の一族、屋代氏、塩崎氏が離反したことを発端とします。義清の居城葛尾城は武田晴信のまえに自落したため、義清は高梨、須田、嶋津などほかの領主とともに上杉謙信に救援を要請しました。奥郡とよばれた善光寺平一帯で繰り広げられた武田と上杉の十余年におよぶ戦いを「川中島合戦」とよびます。
 六曲一隻屏風「川中島合戦図屏風」は、江戸時代、『甲陽軍鑑』をもとに町絵師が描いたものです。信玄と謙信の一騎打ちは、軍記物から絵本や浮世絵などを通し、広く庶民に伝えられました。



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東アジアと信濃


開催期間:平成29年4月〜

 鎌倉時代から戦国時代まで日本では独自の流通貨幣を鋳造(ちゆうぞう)せず、中国から輸入した銅銭を使用していました。東アジア経済圏に組み込まれていたのです。当時は1枚の銅銭を一文(いちもん)(約3.75グラム)、1000枚で一貫という単位でした。展示コーナー横では、実際に銭一貫文の重さを体験することができます。銅銭だけでなく、中国で作られ、日本に運ばれた青磁花瓶(せいじけびょう)や青磁盤(せいじばん)も展示します。
 伊那郡の知久氏出身の禅僧 天与清啓(てんよせいけい)は遣明正使として二度中国へ渡っています。雪舟等楊(せっしゅうとうよう)の描いた湖亭春望図(こていしゅんぼうず)に清啓が賛(さん)(漢詩文)を記しています。清啓の二度目の船には雪舟が乗船しており、雪舟の画に清啓が漢詩文を記したことから二人の深い交流がしのばれます。今回は、この湖亭春望図(複製)を展示します。
 中世の信濃では、中国から入ってきた禅宗の文化や陶磁器、銭などがとりいれられ、大陸と直接交流を持つ人びとも活躍していました。東アジアと深く関わっていたことが伺えます。



街道の風景


開催期間:平成29年3月〜平成30年2月

 庶民に経済力がついてくる江戸時代後期になると、街道は寺社参詣・物見遊山(ものみゆさん)の旅行者でにぎわうようになりました。
 善光寺参りは、伊勢参りと並んで代表的な庶民の旅です。江戸をはじめ各地に善光寺講が組織され、善光寺や街道は参詣者でにぎわいました。善光寺に通じる道は、「善光寺道」とか「善光寺街道」と呼ばれ、街道には善光寺への道標が建てられ、旅のガイドブックも刊行されるほどでした。このガイドブックは片手で持ち歩ける大きさのハンドブックで、宿場ごとに宿屋を記した本や、街道の様子を絵や説明文で表した本などがあります。
 江戸時代の絵師によって描かれた浮世絵風景画『木曽海道六十九次之内』からは、各宿場周辺における街道や旅人の様子を伺うことができます。旅人は、どんな服装・持ち物で旅をしたのでしょう。装束の一部であるマント・笠・草鞋(わらじ)の模造品を展示します。旅の携行品としては、行李(こうり)・印籠(いんろう)・矢立・煙管(きせる)・財布・銭・小田原提灯(ちょうちん)などを展示します。



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満洲北部の開拓団の村スケッチ

満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)
満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)

開催期間:平成28年9月〜

 作者の丸田恒雄氏は、1919年(大正8年)に更級農学校を卒業後、日本農民美術研究所(現・上田市)で山本鼎(かなえ)や倉田白羊(はくよう)、石井鶴三(つるぞう)等に師事し木彫・絵画・石膏を学びました。その後、長野工業学校家具科を卒業後、県内の複数の学校で教鞭をとりました。母校の更級農学校に勤務した期間に、校長を通じて満洲開拓民への家具調度品の作り方の教授依頼があり、1937年(昭和12年)8月に満洲視察で訪れています。なお、氏は「更農式水田線引機」を発明したことで視察の3ヶ月前に帝国発明功労表彰会から表彰されています。
 また、1940年(昭和15年)6月より9月まで「更級郷奉仕隊」として、生徒を引率して再び満洲に勤労奉仕に出向きました。スケッチはこのときに描いたものです。
 当時の開拓風景、家屋、生活道具、動植物などの様子を伝える貴重なスケッチで、更級農業高校の文化祭等でも展示されました。氏は絵をたくさん残しましたが、満洲行きに同行した生徒が当時を懐かしがって、氏が絵を譲られたことも多いそうです。寄贈されたスケッチ60点余りのうち、3点を公開しています。



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華やかな土器文化と生業(なりわい)

塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器
塩尻市剣ノ宮遺跡出土の在地土器と西日本の土器

開催期間:平成29年3月〜

縄文時代中期(約5,000年前)の中部高地では、各地で独創的な飾りの土器が作られるようになりました。その背景には、狩猟・採集中心だった生業に加え、クリ林の管理やダイズ・アズキの栽培技術が発展し、生活が安定したことがありました。
一方、石器の良質な材料である黒曜石や、装飾品となるヒスイは交易によって流通しました。地域毎に特徴ある土器は、交易などの際に“地域の顔”として運ばれました。
土器の作り手たちは、運ばれてきた他地域の土器の良い点をまねし、あるいは違いを強調することで、より一層、華やかな土器を作るようになっていきました。



東山道をむすぶ


開催期間:平成29年3月〜

7世紀後半になると、朝廷は、畿内七道という大きな行政区画にそれぞれ属す「国」を単位として全国を支配する仕組みを整えました。七道は朝廷が地方を統治するために建設した官道の名称であるとともに、その官道によって結ばれた諸国全体を指す名称でもありました。
 信濃(科野)国には畿内と東の地域をむすぶ東山道〈とうさ(せ)んどう〉と、筑摩郡内で東山道から分岐し、越後国で北陸道とむすばれる支道が整備されました。この古代の道が政治的に重要であったことは、推定される東山道や支道に沿った地域の遺跡から、律令政府が鋳造発行した銭貨が見つかっていることからもうかがえます。
 富本銭や和同開珎にはじまる皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉の鋳造発行は、国家的事業として実施されました。都の周辺を中心に流通していたこれらの銭貨は、当時の律令体制という政治システムの中で、東山道を通じて信濃国へもたらされたのです。
 古代の信濃国の範囲からは、富本銭や和同開珎銀銭をはじめ、12種類の銭貨が見つかっています。それらを展示します。



川中島合戦図屏風

川中島合戦図屏風(当館蔵)
川中島合戦図屏風(当館蔵)

開催期間:平成28年11月〜

 川中島合戦は、天文22年、村上義清の一族、屋代氏、塩崎氏が離反したことを発端とします。義清の居城葛尾城は武田晴信のまえに自落したため、義清は高梨、須田、嶋津などほかの領主とともに上杉謙信に救援を要請しました。奥郡とよばれた善光寺平一帯で繰り広げられた武田と上杉の十余年におよぶ戦いを「川中島合戦」とよびます。
 六曲一隻屏風「川中島合戦図屏風」は、江戸時代、『甲陽軍鑑』をもとに町絵師が描いたものです。信玄と謙信の一騎打ちは、軍記物から絵本や浮世絵などを通し、広く庶民に伝えられました。



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東アジアと信濃


開催期間:平成29年4月〜

 鎌倉時代から戦国時代まで日本では独自の流通貨幣を鋳造(ちゆうぞう)せず、中国から輸入した銅銭を使用していました。東アジア経済圏に組み込まれていたのです。当時は1枚の銅銭を一文(いちもん)(約3.75グラム)、1000枚で一貫という単位でした。展示コーナー横では、実際に銭一貫文の重さを体験することができます。銅銭だけでなく、中国で作られ、日本に運ばれた青磁花瓶(せいじけびょう)や青磁盤(せいじばん)も展示します。
 伊那郡の知久氏出身の禅僧 天与清啓(てんよせいけい)は遣明正使として二度中国へ渡っています。雪舟等楊(せっしゅうとうよう)の描いた湖亭春望図(こていしゅんぼうず)に清啓が賛(さん)(漢詩文)を記しています。清啓の二度目の船には雪舟が乗船しており、雪舟の画に清啓が漢詩文を記したことから二人の深い交流がしのばれます。今回は、この湖亭春望図(複製)を展示します。
 中世の信濃では、中国から入ってきた禅宗の文化や陶磁器、銭などがとりいれられ、大陸と直接交流を持つ人びとも活躍していました。東アジアと深く関わっていたことが伺えます。



街道の風景


開催期間:平成29年3月〜平成30年2月

 庶民に経済力がついてくる江戸時代後期になると、街道は寺社参詣・物見遊山(ものみゆさん)の旅行者でにぎわうようになりました。
 善光寺参りは、伊勢参りと並んで代表的な庶民の旅です。江戸をはじめ各地に善光寺講が組織され、善光寺や街道は参詣者でにぎわいました。善光寺に通じる道は、「善光寺道」とか「善光寺街道」と呼ばれ、街道には善光寺への道標が建てられ、旅のガイドブックも刊行されるほどでした。このガイドブックは片手で持ち歩ける大きさのハンドブックで、宿場ごとに宿屋を記した本や、街道の様子を絵や説明文で表した本などがあります。
 江戸時代の絵師によって描かれた浮世絵風景画『木曽海道六十九次之内』からは、各宿場周辺における街道や旅人の様子を伺うことができます。旅人は、どんな服装・持ち物で旅をしたのでしょう。装束の一部であるマント・笠・草鞋(わらじ)の模造品を展示します。旅の携行品としては、行李(こうり)・印籠(いんろう)・矢立・煙管(きせる)・財布・銭・小田原提灯(ちょうちん)などを展示します。



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満洲北部の開拓団の村スケッチ

満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)
満洲更級郷のスケッチ(個人蔵)

開催期間:平成28年9月〜

 作者の丸田恒雄氏は、1919年(大正8年)に更級農学校を卒業後、日本農民美術研究所(現・上田市)で山本鼎(かなえ)や倉田白羊(はくよう)、石井鶴三(つるぞう)等に師事し木彫・絵画・石膏を学びました。その後、長野工業学校家具科を卒業後、県内の複数の学校で教鞭をとりました。母校の更級農学校に勤務した期間に、校長を通じて満洲開拓民への家具調度品の作り方の教授依頼があり、1937年(昭和12年)8月に満洲視察で訪れています。なお、氏は「更農式水田線引機」を発明したことで視察の3ヶ月前に帝国発明功労表彰会から表彰されています。
 また、1940年(昭和15年)6月より9月まで「更級郷奉仕隊」として、生徒を引率して再び満洲に勤労奉仕に出向きました。スケッチはこのときに描いたものです。
 当時の開拓風景、家屋、生活道具、動植物などの様子を伝える貴重なスケッチで、更級農業高校の文化祭等でも展示されました。氏は絵をたくさん残しましたが、満洲行きに同行した生徒が当時を懐かしがって、氏が絵を譲られたことも多いそうです。寄贈されたスケッチ60点余りのうち、3点を公開しています。




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