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鎌倉幕府下知状

正安4年12月1日 (1302)

鎌倉幕府下知状幕府が、小田切実道と市河盛房の間で相論となっていた中野西条ならびに志久見郷湯山村の屋敷・名田について両家の間でとりかわされた和与状に従うべき旨を裁定した下知状。小田切実道は中野忠能の養子で、蓮阿(中野忠能の妻)より領地の一部を譲り受けたことが正応3年11月17日鎌倉幕府下知状(029)から知られるが、市河盛房との相論中に死去し、その跡は娘の性阿が継ぐこととなった。性阿と市河盛房は相論について和解することになり、永仁3年(1295)に和与状を出して、御堂四壁や屋敷を性阿が盛房に避り与えることになったが、こんどはこの和与状についての幕府の下知状が発給される前に性阿が死去する事態となった。性阿の死後、夫の関屋蓮道が和与状通りの沙汰を求めたため、本文書が出されることとなった。

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翻刻

鎌倉幕府下知状翻刻

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