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信濃電気株式会社関係資料

資料No(記号) 高井〔8〕/8-16
説明(解題) 本目録には、2010(平成22)年に上條信彦氏より寄託を受けた収集史資料群のうち信濃電気株式会社に関わる図面類ほか171点を収録している。
 信濃電気は須坂町の製糸業山丸組の開設者越寿三郎によって1903(明治36)年設立された水力発電による電灯会社である。山丸組は須坂町の共同製糸組合である俊明社のなかで発展し、大正元年には県内外に5工場・1514釜、1927年(昭和2年)には県内8工場、県外3工場、総釜数約5000釜を誇る日本最大規模の大製糸場である。信濃電気は、製糸工場の規模が拡大するなかで、夜間興業後の火災予防と須坂町内の点灯を目的として設立された電気会社である。当初米子発電所(須坂市)を設置し、発電量出力60kwの供給が可能になった。1904(明治37)年の需要家数は997軒、燈数2,510で、収入総計21,316円あった。
 製糸業の盛んだった長野県内では水力発電と電灯の普及は急速に進み、1907(明治40)年から1914(大正3)年にかけて全県での各電力会社の顧客・電灯数は伸び続けた。信濃電気は須坂町を中心に千曲川東岸を基盤としていたが、長野など水内郡を拠点とする長野電灯との電力供給権獲得競争が激しくおこなわれた。これは長野県知事により仲裁がおこなわれ、長野電灯は長野市内、信濃電気は上田・小県・佐久など東北信地方への経営拡大をはかった。この結果、信濃電気は大正3年には需要家数16,116軒、収入総計522,773円に達し、特に収入は1904年の25倍にまで拡大した。これは当時長野県内にあった11電力会社のなかで群を抜いている。また、電線路延長で402?に及び、県内一であった。しかし昭和恐慌による養蚕業の打撃により越が経営から退陣し、1931(昭和6)年には長野電灯と対等合併に至った。
 本史料は、信濃電気により作成された電灯および電線敷設に関わる大正初期の地図がほとんどである。測量された図面で電柱の配置や電線架設箇所を記されている。地域は現在の須坂・中野・飯山・山ノ内など岳北・岳南地域に限られているが、大正期は信濃電気の経営拡大期にあたり、地域産業の振興と電力の関わりを知るうえでこれらは極めて貴重な資料といえよう。信濃電気中野出張所技師曾沢の名前が入った図面や書簡の宛名などから旧蔵者は同社の技師関係者と推測される。

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