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今清水家文書

資料No(記号) 水内〔9〕/9-25
説明(解題)今清水氏は飯山の千曲川左岸地域に拠点を置いた国衆で、この文書群は上杉景勝とともに東北へ移住していった今清水家に残された資料である。今清水氏は、泉氏を出自とした同族集団で、泉八家のひとつとして数えられている。また戦国期には彼らは「外様衆」と呼ばれていた。
今清水家文書についてはじめて概要を明らかにしたのは栗岩英治であり、昭和初期に発刊された『信濃講座』の一巻が今清水家文書にあてられた。近年では『飯山市誌』、『上田市誌』には一部その関係資料が触れられているが、全体像にまでは言及されておらず、後述するように史料批判がされていない点で不十分である。なお今清水一族は飯山市中條付近を活動基盤としているが、本貫地名は現在の飯山市内に比定できる場所がない。牧峠を越え越後府中へ抜ける道沿いに今清水がある。
水内郡の泉氏は「満快流源氏 鎌倉御家人泉親平」の子孫としている。今清水氏の系図では親平が水内郡尾崎の地に隠棲し祖となったとしているがはっきりしない。これらの系図では一五世紀の泉重治から八つの家にわかれ、在地の名前を名字とした。この系譜については真偽は定かではないが、おそらく泉八家と呼ばれる家は、確たる血縁があるのではなく泉親平を祖と仰ぐ尾崎氏と、そのほかの諸国人との地縁的な結合集団だった可能性がある。泉氏は永正の乱では長尾為景を救援するため、高梨・島津・市河らとともに信越国境周辺の諸将とともに出陣しているなど、越後との関係は深い。永禄六年には、飯山城が武田信玄に攻略されたとして、外様衆が謙信から叱責されたが、これはもともとは飯山実城が「いつみ弥七郎」が城主であり、番将として外様衆が在番していたこと、その隙をつかれて武田軍の侵入を許したことが理由であった。慶長三年(1598)の上杉家の会津移封では、外様衆は宮内に尾崎重元、新宿に中曽根義清、高畠に今清水重将、鮎貝に上倉元春、小国に大滝実安、掛入石中山に岩井信能・奈良澤淳盛、荒砥に上堺重誉に居を移し、北信濃における中世社会も幕を閉じることとなった。しかし、家伝では慶長四年、外様衆は御叱をこうむり閉門となったといい、今清水元親も大坂の陣で改易となった。その後寛永五年に小姓組に復帰したという。幕末は百石取で終わっている。
目録収載された史料は、おおよそ3つに分類できる。第1に信濃時代の今清水氏に伝来した文書類、第2に東北へ移住した後の文書群、第3に上杉家関係の文書である(詳細は村石正行「米沢藩今清水家文書について」『長野県立歴史館研究紀要』15、2009年、参照)。第1分類には、後世の偽作文書も含まれるため注意が必要である。第3分類のなかには「織田信長朱印状」、「豊臣秀吉書状」が含まれる。前者は宛名を欠くが内容から上杉謙信に宛てられたもの、後者は景勝に宛てられたもので、形状・紙質など原本とみて間違いないものである。本来ならば上杉家文書の一画を占める重要史料である。この二通が今清水家に伝えられた理由は不明である。

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