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埴科郡矢代宿本陣柿崎家文書

資料No(記号) 更埴〔7〕/7-21
説明(解題)矢代(屋代)の地名は、「和名抄」に「屋代」と出てくるのが初見である。中世は屋代氏が支配した。矢代宿を含む矢代村は、江戸時代初めのごく一時期松平忠輝領であったのを除き松代藩領であった。「天保郷帳」による村高は、1715石であった。矢代宿(千曲市屋代)は、北国往還(通称:北国街道)の宿場のひとつで戸倉宿と丹波島宿の間に位置した。宿の成立は、慶長11年(1611)に松平忠輝が矢代村へ「伝馬書」を出しており、その頃であると考えられる。宿場は、須々岐水神社附近を境として本町組(南側)、新町組(北側)に分かれていた。新町組には、松代へ向かう北国西街道の分岐があった。
本町と新町にはそれぞれ宿役人がおり、伝馬役を半月ごと交代でつとめていた。柿崎源左衛門家は、代々宿役人をつとめた家であった。柿崎源左衛門家の祖は、越後上杉家の家臣で米山城主柿崎景家の次男弥次郎が矢代の地に移り住んだことにはじまるといわれ、貞享3年(1686)まで矢代宿の問屋・本陣・肝煎をつとめた。それ以後肝煎は別の家でつとめるようになったが、問屋・本陣は幕末までつとめ続けた。
文書の年代は、慶長16年(1611)から大正7年(1918)の約300年である。矢代宿は、加賀前田家の小休止の宿に指定されており「加賀中納言様御下宿帳」をはじめとして前田家の小休止、宿泊に関する文書が幕末を中心に20点ほどみられる。伝馬、助郷に関する文書も村側の免除の写しや宿駅側の願書などをはじめとして70点ほどみられる。また田畑の売買証文や借用証文など金融にかかわる文書の数も多い。その他千曲川のはさんだ塩崎村との境論関係の文書、山王社(須々岐水神社)の祭礼関係の文書なども散見され、宿だけではなく矢代村をはじめとする地域のようすをうかがうことができる。また、数は少ないが千曲川通船に関わる文書もみられる。

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